先日、新しくできた某センターでお話をした。宣伝不足?もあり、寂しいものだったが、裏事情を知っているだけに、まぁ、大変なようである。それはさておき、今週末も大阪のエルおおさかへお話に行かなければいけない。タイトルは「斉明天皇と中大兄皇子」。恩師に頼まれたので、断るわけにもいくまい。もっとも、秋にも同じような話をしなければいけないのだが、こちらはシンポジウムもついていて、またまた恩師と同席である。これはなかなかやりにくいものである。
 その斉明天皇については、酒船石や亀形石の発見で、その評価は大きくなったのであるが、その分、中大兄皇子の評価が隠れてしまった感じである。そんな中、先の牽牛子塚古墳の調査では、斉明天皇が再び注目されてきた。しかし、考えてみれば、牽牛子塚を作ったのは斉明天皇ではなく、中大兄皇子であることは注意が必要であろう(667年頃築造だと思っているので……)。この古墳の築造背景には、中大兄皇子色が強いと思う。そんなことも踏まえながら、元職場の上司の退官記念論集では、天智朝の飛鳥について考えてみた。小墾田兵庫や留守司の位置や構造が、おぼろげながら見えてきた。別の所では中大兄皇子宮について考え、嶋宮のちかくに推定できた。このようなことを考えていると、斉明天皇によって隠されていた中大兄皇子の評価について見直さなければいけないような気がしている。そうすれば飛鳥史がまた少し、違う角度から見えてくるような気がする。週末の講演会では、そんなことを考える糸口にしてみたい……。