「石神遺跡で瓦葺の東門の建物が見つかった」という発表がされたのは、発掘当時の現地説明会のことである。その後の調査と瓦の分析によって、この瓦が奥山久米寺式の620~630年代のものであることが判明したという。そして、この瓦を葺いた建物の性格をめぐって、巷でにわかに議論が沸いている。調査事実をもとに、いくつかの可能性、例えば斉明朝の小墾田宮や小墾田禅院や蘇我稲目の小墾田の家などについて検討をするが、いずれも合致せず、結論的には「蘇我氏の影響の強い仏教施設」とされた。
そこで改めて、これまでに判明している成果を整理してみよう。
・瓦は奥山久米寺式で620~630年代のものである。→石神遺跡A期以前の時期である。
・奥山久米寺は「小墾田寺」の有力な候補地である。→奥山久米寺式瓦は蘇我氏に関係深い瓦である。
・軒瓦は石神遺跡で77点出土している。→瓦葺建物1棟分(?)に相当する。
・瓦の出土は遺跡の南辺及び東辺に集中する。→建物が遺跡の南辺や東辺ちかくに建っていた。
・北方の雷丘東方遺跡が小墾田宮と推定される。→石神遺跡も小墾田宮の可能性がある。
ここから判明するのは、石神遺跡の南辺から東辺にかけての地域に620~630年代にかけての蘇我氏にかかわる瓦葺建物(数棟?)が建てられていたということだろう。斉明朝の小墾田宮瓦葺計画や小墾田禅院や蘇我稲目の小墾田の家がその検討の候補にあがるが、時代が合致しないことが致命的である。そこで蘇我氏の影響の強い仏教施設と理解されるのであるが、現状では妥当な見解であろう。
しかし、この他に可能性は残っていないだろうか?
石神遺跡A期(640年代)以前の遺構は、これまで斜行溝や石敷などの遺構しか確認されておらず、建物は今回のものが今のところ唯一である。しかも正方位をしている。この点、この時期の遺跡の実態は不明確であるが、ここて出土遺物に注目すると、新羅土器がある。石神遺跡では他の遺跡と違って、新羅土器の出土量か多い。この新羅土器の年代は重見泰氏によると、7世紀中頃よりも古い(A期以前)ものが多いという。瓦葺建物と同時期の新羅土器があるということは、この時期も迎賓館的な施設があった可能性も残されている。つまり、この瓦葺建物が7世紀前半(A期以前)の迎賓施設の可能性も検討する余地がある。
これを補強する研究が小笠原好彦氏によってなされている。小笠原氏は山城の高麗寺から出土する瓦を分析し、飛鳥寺同笵瓦を寺院創建以前のものに位置づけている(創建時期は7世紀後半)。これを高句麗施設を饗宴宿泊させた相楽館の建物に葺かれた瓦と推定している。同様に難波宮の下層から出土する7世紀前半の瓦を難波館にかかわる施設の瓦と推定する。このように山城や難波にあった7世紀前半の迎賓施設の一部に瓦が葺かれていた可能性を指摘する研究があるので、あながち石神遺跡A期以前にも、瓦葺の小規模な迎賓施設があったとしても、問題はなかろう。さらなる研究が必要である……。
そこで改めて、これまでに判明している成果を整理してみよう。
・瓦は奥山久米寺式で620~630年代のものである。→石神遺跡A期以前の時期である。
・奥山久米寺は「小墾田寺」の有力な候補地である。→奥山久米寺式瓦は蘇我氏に関係深い瓦である。
・軒瓦は石神遺跡で77点出土している。→瓦葺建物1棟分(?)に相当する。
・瓦の出土は遺跡の南辺及び東辺に集中する。→建物が遺跡の南辺や東辺ちかくに建っていた。
・北方の雷丘東方遺跡が小墾田宮と推定される。→石神遺跡も小墾田宮の可能性がある。
ここから判明するのは、石神遺跡の南辺から東辺にかけての地域に620~630年代にかけての蘇我氏にかかわる瓦葺建物(数棟?)が建てられていたということだろう。斉明朝の小墾田宮瓦葺計画や小墾田禅院や蘇我稲目の小墾田の家がその検討の候補にあがるが、時代が合致しないことが致命的である。そこで蘇我氏の影響の強い仏教施設と理解されるのであるが、現状では妥当な見解であろう。
しかし、この他に可能性は残っていないだろうか?
石神遺跡A期(640年代)以前の遺構は、これまで斜行溝や石敷などの遺構しか確認されておらず、建物は今回のものが今のところ唯一である。しかも正方位をしている。この点、この時期の遺跡の実態は不明確であるが、ここて出土遺物に注目すると、新羅土器がある。石神遺跡では他の遺跡と違って、新羅土器の出土量か多い。この新羅土器の年代は重見泰氏によると、7世紀中頃よりも古い(A期以前)ものが多いという。瓦葺建物と同時期の新羅土器があるということは、この時期も迎賓館的な施設があった可能性も残されている。つまり、この瓦葺建物が7世紀前半(A期以前)の迎賓施設の可能性も検討する余地がある。
これを補強する研究が小笠原好彦氏によってなされている。小笠原氏は山城の高麗寺から出土する瓦を分析し、飛鳥寺同笵瓦を寺院創建以前のものに位置づけている(創建時期は7世紀後半)。これを高句麗施設を饗宴宿泊させた相楽館の建物に葺かれた瓦と推定している。同様に難波宮の下層から出土する7世紀前半の瓦を難波館にかかわる施設の瓦と推定する。このように山城や難波にあった7世紀前半の迎賓施設の一部に瓦が葺かれていた可能性を指摘する研究があるので、あながち石神遺跡A期以前にも、瓦葺の小規模な迎賓施設があったとしても、問題はなかろう。さらなる研究が必要である……。