今年は慶州・扶余と、すでに2回も韓国に行く機会があった。つまり新羅と百済の遺跡を多くみる機会を得たのである。
飛鳥の都を考える時、中国の都との比較をよく考える。藤原京についても最近では中国の周礼を規範としたとする説が有力であるが、飛鳥時代の同時代の韓国についても比較する必要がある。
しかし、飛鳥や藤原京の宮殿については、発掘調査でかなり判明してきたが、新羅王宮についてはよくわかっていない。慶州の王宮には月城があるが、その中心部は発掘されていない。また北宮と推定される城東洞遺跡もまだ実態の解明はされていない。これに対して、近年の大規模な発掘によって、条坊や苑池・寺院については徐々にではあるが明らかになってきている。
一方、百済の王宮は扶蘇山城南麓の官北里遺跡が王宮の推定地になっているが、その中心施設は確認されていない。慶州同様に苑池や寺院、羅城については調査されているが、条坊の有無や都市内部については、ほとんど解明されていない。
このようにまだ、宮殿構造や都市構造については、韓国の古都は不明な点が多いので、単純に日本の都との比較はできない。これらの制約を踏まえながらも、両国の都市を比較したのが、元橿原考古学研究所におられた亀田博氏である。
当時の日本は、中国を指向していたが、やはり同時代の韓国との比較研究は重要である。しかし、百済の都は益山地域も含めて、さらなる調査が望まれるし、それを踏まえた研究が必要だろう。しかし、そのためには○×文字を勉強しなければ……。
飛鳥の都を考える時、中国の都との比較をよく考える。藤原京についても最近では中国の周礼を規範としたとする説が有力であるが、飛鳥時代の同時代の韓国についても比較する必要がある。
しかし、飛鳥や藤原京の宮殿については、発掘調査でかなり判明してきたが、新羅王宮についてはよくわかっていない。慶州の王宮には月城があるが、その中心部は発掘されていない。また北宮と推定される城東洞遺跡もまだ実態の解明はされていない。これに対して、近年の大規模な発掘によって、条坊や苑池・寺院については徐々にではあるが明らかになってきている。
一方、百済の王宮は扶蘇山城南麓の官北里遺跡が王宮の推定地になっているが、その中心施設は確認されていない。慶州同様に苑池や寺院、羅城については調査されているが、条坊の有無や都市内部については、ほとんど解明されていない。
このようにまだ、宮殿構造や都市構造については、韓国の古都は不明な点が多いので、単純に日本の都との比較はできない。これらの制約を踏まえながらも、両国の都市を比較したのが、元橿原考古学研究所におられた亀田博氏である。
当時の日本は、中国を指向していたが、やはり同時代の韓国との比較研究は重要である。しかし、百済の都は益山地域も含めて、さらなる調査が望まれるし、それを踏まえた研究が必要だろう。しかし、そのためには○×文字を勉強しなければ……。