その2
 奈良時代の後期難波宮大極殿院の調査で興味深い、性格不明の遺構がある。大極殿のすぐ南の後期バラス敷の下層から一辺2mにも及ぶ柱穴が東西に5基見つかっている。後期難波宮の遺構保護のため、断片的ではあるが、ほかに確認できないことから、前期難波宮の東西塀と考えられる。ただし、柱穴には、前期難波宮特有の焼土が入っていない。
 この遺構の性格はこれまで不明であった。ここでは二つの可能性を考えてみたい。まず、この柱穴群が建物を構成する一部とするものである。柱掘方の規模が2mもあり、難波宮の殿舎でもこれほどの規模をもつのは、内裏南門や内裏前殿などで、重要な建物に限られている。しかし、この柱穴に伴う柱穴が、北や南で確認できないことから、問題がある。
 もうひとつは幡柱とするものである。平城宮や長岡宮の大極殿院前庭では宝幢遺構がみつかっている。これに対して、藤原宮では大極殿院前庭部分は未発掘であるが、大極殿南門のさらに南の朝庭部分で、ひとつ掘形に2本の柱を立てる幡柱遺構がみつかっている。その位置は、前期難波宮の位置(内裏南門の南)と共通する。さらに柱穴に焼土が含まれないことも、朱鳥元年には撤去されていたと考えれば、説明がつく。
 このように、後期大極殿前下層の大型柱穴群は、藤原宮の近年の調査成果を参考にすれば、幡柱遺構の可能性があろう……。