高取町教育委員会は薩摩遺跡で古墳時代の大壁建物、奈良時代の道路と建物が見つかったと発表した。今日はその現地説明会があったので、バイクで行った。現場は高取バイパスに交差する県道拡幅に伴う調査で、500崋紊猟敢唆茲任△襦新聞発表前に、とある筋から「紀路が見つかった」と聞いていた。その内容を聞いていると、方位や道路幅や位置からみて、紀路そのものではないだろうと言っておいた。
 説明会資料によると、今回は大きく3時期の遺構群が見つかっているとされる。もっとも古いのは古墳時代初頭の土器溜まり、次に5世紀後半から6世紀の大壁建物が5棟、奈良時代の南北道路と掘立柱建物である。
 ここで問題なのは奈良時代の南北道路であるが、紀路そのものとは考えがたい。この点は調査担当者も発表では紀路とは言っていないそうだ。紀路そのものの遺構はこれまでに確認されたことはなく、その実態は明らかではない。ただ、現在も残る道路の地割などから今回の調査区の南側を、斜めに通過していたことが考えられる。この地点だけ正方位に屈曲するとは考えがたい。また、両側溝間の幅が9mと狭く、紀路であるなら、最低でも12m、下ツ道などを参考にすると、幅22mはほしい。これらのことから、これが南北道路だとすると、紀路から枝分かれする支線の道路ということになろうか。さらに問題なのは、調査地北側と東側で過去に実施された調査で、南北道路の溝の延長部や同時期の遺構が確認されていないことだ。もっとも確認されていないことをもって、無かったとは言い切れないが、今後周辺での確認が必要であろう。
 また、某研究所の所員の話では、今回の道路側溝は中世の溝の可能性もあるという。今回は現地で断面を注意してみていたが、なかなか難しそうな土質であった。平面・断面を削ったわけではないので、何とも言いようがないが、遺構の識別は難しい。もうひとつの疑問は遺構の残り具合だ。今回、一辺1mちかい掘形に40僂曚匹涼貂跡がある建物が見つかっている。残存する深さは20~30冂?戮世蹐Δ。この掘形の断面の土も、周りの土との識別が難しそうだ。しかし、これほどの規模の柱穴であれば、最低でも1m程度の深さはほしい。つまり少なくとも70~80僂郎錣蕕譴討い襪海箸砲覆襦とすれば、道路側溝や大壁建物も同程度は削平されていることになり、本来はとてつもなく深い遺構となる。
 いずれにしても、積み残した課題は多い。まだ隣地での調査が続くというので、今後の調査で同時期の遺構の展開がまたれる。