発語が遅く、人の語りかけに

あまり反応しなかった娘。

専門家に相談し、

検査やカウンセリングを受けた結果、

2歳の終わり頃から療育に通う事となりました。

 

わが子は一体、能力的に何が欠落しているのか。

 

定型発達と言われる子たちと、

娘は何がどれくらい違うのか比較することで

娘の能力や発達状況を必死に把握しようとしていた時期が私自身ありました。

 

娘の特性を理解した上で

過ごしやすい環境を整えてあげたいという親心からでも勿論ありましたが、

それと同じ位、

娘が難しいと感じることを克服して

いつか定型発達の子たちと変わらないような状態になってほしいという

自分の勝手な願いもありました。

 

やはりそういう思いが底辺にあると

ゆっくりではあるけれど

娘なりに懸命に成長している部分よりも

他の子たちと比較して「できていないこと・足りない事」に自然と目がいってしまい、結局娘を焦らせたり、自分自身が苛立ったりしてしまうのでした。

 

 

2・3歳の発達状態は、個人差も大きく

それが発達のスピードの問題なのか、

それともいわゆる「発達障害」と言われるような特性の問題なのかの見極めが難しい部分もあります。

 

どうか「発達のスピード」がゆっくりなだけであってほしい…

ある時期になったら、グンと言語能力が伸びて

悩んでいたことがうそのようだったね、と言えるようになってほしい。

そんな気持ちを持ち続けていました。

 

でも4歳が近づくころには

娘は出来ることと出来ないことの凸凹が激しいのだろうと理解し始めました。ちょうどその頃、「敏感期」という概念と出会いました。

 

この概念は、どうしても

「定型発達の子」と比較してしまう私に

いかにそれが意味のない事かを教えてくれるものでした。

 

敏感期はもともと生物学の用語だそうです。

 

 すべての生物は幼少期に、自分の将来に必要な

 ことのために、あることへの感受性が非常に

 敏感になり、それを環境の中に見つけだし、

 強烈にかかわっていく特別の短い時期がある。

 そのことを獲得すると、その感受性は

 鈍感になり、また次のものへの感受性が

 高まるというのです。

 

 相良順子著. お母さんの「敏感期」モンテッソーリ教育は子を育てる、親を育てる

 文春文庫、2007, P56

 

それぞれの子供が、

それぞれのタイミングで何かに夢中になり

(周りの大人がいくら止めようとしても無駄なほどに)

能力を獲得していく。

 

大人から見ると無意味なこと(あることの順番に異常にこだわるとかw)でも、子供にとってそれは「秩序感を身につける敏感期」として、譲りがたい過程であったり。

 

大人が「今あなたは●歳だから、これくらいのことができないと」と思う事はとんでもなく勝手であり、同時に非効率な事なのだと気づきました。

子供はほっておいても、準備できたタイミングで「敏感期」を迎え、必死で能力を獲得しようとするのですから。(逆に準備できていないときに必死に教え込もうとしても、本当の意味で身につくことはないのでしょう)

 

周囲の大人ができる事とすれば、

わが子が今どんなことに興味があって

・どんな敏感期に身を置いているのか

 

丁寧に観察して気づいてあげること。

そしてそれを邪魔しない事。

どんなにそれが、とるに足らないような事に思えても。

 

周りの子、通常発達の子が適齢期にできることを指標にすることの無意味さがわかったことで、目の前にいる娘の成長をしっかり見つめ、サポートしていくことに注力しようと、少しずつ思えるようになったと思います。