幼少期に父に受けた影響は
とても大きいものだったと
今になって感じているところです。
(父はまだ健在ですが)
幼少期は父とよく将棋を指しました。
父が語るには、
将棋は人生そのもの。
相手に攻め込まれて
自陣がバラバラになって
もうだめだと思ったら
自分の駒台を見よと。
相手が攻める時には
それなりの犠牲を払って
こちらには手駒ができる。
その時が逆にこちらのチャンスだと。
劣勢が続くことが必ずしも
「追い込まれている」わけではない、と。
私は小学3年生まで
名古屋市のはずれに住んでいました。
すぐ隣は豊明市でしたから
週末は中京競馬場に向かう車で
なかなか道路が横断できませんでした。
(横断歩道が歩行者優先なんて知りませんでした)
父は豊明市の町工場に勤めていました。
日曜日の遊びは
父の自転車の荷台に乗せられ
競馬場で父が「戦っている」間
広場に放牧させられるか、
喫茶店で「モーニング」ののち
緑区の図書館にいくか。
競馬好きで読書家。
油汚れか、たばこのヤニか
指先が黒く固くなっている父が
きれいな桐の箱を持っていました。
入っていたものは将棋の免状です。
いくつかありましたが
最も高位のものは四段でした。
当時父は、
「もっと上が取れたけど
たくさんお金がかかるから
四段でやめておいた」
最近は
「お情けで取れた四段だから」
と謙虚なことをいいますが
父が若い頃勤めていた会社の将棋大会で獲得した
優勝と準優勝のトロフィーは
大事に飾ってありました。
町工場勤務の父には
意外な経歴がありました。
若い頃、将棋のプロ棋士の道場に
出入りしていたというのです。
正しい言い方かどうかはわかりませんが
「板谷進門下」の端くれだそうです。
名古屋あたりで将棋をされる方なら
一目を置かれる存在でしょう。
将棋界のスター藤井聡太さんの師匠
杉本八段と同じ門下となります。
プロになるための奨励会には
入れない年齢だったというので
プロの道場とは違うかもしれませんが
お忙しい板谷進先生にも接する機会があり、
お父様の板谷四郎先生には
よく指導を受けたと聞いています。
ある日曜日の行先は緑図書館の方向。
しかし行先は別のどこかの集会所。
小学生の将棋大会に
小1で初めて参加しました。
何回か勝ち進んで敗退。
突然角で玉を取られました。
角筋にいない玉が取られて負け。
何回戦までかは立会人がいないので
誰も見ていなかったのですが、
角筋違いも自分の思い込みで
確かに取られたかもしれません。
ただ、その負けが当時はとても納得がいかず、
それ以降は将棋の大会には参加しませんでした。
父と指すと、いつも勝たせてくれました。
小学生のころは、勝つと嬉しいし楽しくなる。
それで詰将棋の本とか、
父が持っていた将棋年鑑で
大山先生の棋譜を並べてみたり、
そういう見まねから
本格的に取り組むようになるものでしょう。
そして、一段上の実力を身に付けるには
自分よりも強いものと戦って、
良い意味で負けに慣れながら
鍛錬していくのです。
そうなる前に
つまらない思いをして
将棋から遠ざかりました。
あのときの大会で
もう少し良い成績だったら
もっと頑張ったかもしれません。
父は強く勧めませんでしたが
奨励会を志せば、
きっと応援してくれたでしょう。
そういう選択も
私の自由にさせてくれたのは
良かったと思います。
私には将棋の才能はなかったと思います。
将棋を通しての親子の語らい。
昔は「家業」を通して
親子は師弟のような関係で
仕事や日々の生活を通して
人生観や仕事の流儀を伝えたといいます。
親子の対話は、人生の大事なレッスンなのです。
私は良い影響を得たと思っています。