しがらみを断ち切り、新天地で必死に生きる親子がいます
古くて、狭い。東京郊外の公団住宅。でも、日当たりは抜群にいい。それにここなら、これまでとは違って一人に一つ、自分の部屋が持てる。Yはすぐに、いいな、と思った。だけど、一番の決め手になったのは7歳になる息子の、文字通りの“嗅覚”だ。
 
「臭くない!」
初めてこの部屋の内見におとずれたとき、息子は部屋に入るなり、ひまわりように晴れやかな顔で、確かにそう言ったのだ。
母一人、子一人の、新しい生活
 
これまで見てきたいくつかの部屋で、彼は玄関に入るなり「臭い!」と顔をしかめて鼻をつまんだ。言われてみれば確かに、少しカビ臭い気もした。そうはいっても、限られた予算ではぜいたくも言えない。このまま条件に合う部屋が見つからなければ、感覚の人一倍敏感な彼を、どうにか説得しなければならないだろう。……が、果たしてそんなことできるのだろうか。考えるだけで気がめいった。
 
『家族無計画』などで人気を博するエッセイストの紫原明子さん。この連載でつづるのは、紫原さんが実際に見てきたさまざまな家族の風景と、その記憶の中にある食べ物について。連載の一覧はこちら
Yがその部屋にたどり着いたのはそんな矢先のことで、だから、見えない力に強く背中を押された気がした。大丈夫だ。自分の選択はきっと間違っていない。
 
ここで母一人、子一人。二人だけの、新しい生活を始める。
私がYと初めて会ったのは2年前、とある子育て系のイベントに登壇したときのことだった。登壇者たちによる話がひとしきり終わったあと、質疑応答のタイミングで、彼女は誰よりも早く手を挙げて言った。
 
「私の息子は、発達に偏りがあり、ふとしたことで心に傷も負ってしまいました。今はまだ学校にも通えず、毎日私と二人で、家の中で過ごしています。私も、体があまり強くなく、今は仕事をしていません。彼をこれからどうしてあげたらいいのか。たくさん考えてきたけれど、行き詰まってしまいました。まわりに頼れる人もいません。よければ力を貸してください」
 
華奢な体から、細い声で絞り出される訴えは切実だった。彼女のために何とかしなければと、その場にいたほとんどの人は思ったはずだ。しかし、いったい何ができるというのだろう。すぐにいい案は思い浮かばず、その日は軽い挨拶を交わし、私の連絡先だけを渡して別れた。
すると翌日、彼女からメールが届いた。
 
ある土曜日、新宿の喫茶店で
 
「明子さんに聞いてもらいたくなったのですが、少しいいでしょうか」
遠慮がちに始まったメッセージには、彼女と息子との毎日の暮らしや、その中にあるいくつかの困難についてつづられていた。なんでも彼女は数カ月前に、息子を連れて九州から、縁もゆかりもない東京に出てきたばかりだという。絵本のような優しい語り口でつづられていた文面からは、傷ついた息子を連れて一人、東京に出てきたお母さんとしてはどこか心許なく、放ってはおけない気がして、改めてYと会う約束を取り付けた。
 
数日後の土曜の昼。私たちは新宿の古い喫茶店で落ち合った。
「新宿、初めて来ました。人も多くて、少し迷っちゃいました」
笑いながら言うYの表情は、この前会ったときよりどことなく疲れているようにも見えた。それで、少し飲まない?と提案した。お酒そのものより、お酒を飲んで、気を緩めていい時間を作ることが、なんとなくいい気がしたからだ。
けれども彼女はそれを聞くと、わずかに目を伏せた。「あ、ごめん、お酒飲めなかった?」。私が再度尋ねると、Yが答えた。
 
「多分、飲めます。でももう10年近く飲んでないから、今はわからない」
 
「飲めるのに、10年も飲まなかったの?」と驚いて聞くと、そこからYは、少しずつ、自分のそれまでのことを話し始めた。
Yは、日頃めったに笑わない厳格な父と、そんな父や3人の子どもに日々、かいがいしく尽くす母親との間に育った。
 
「無関心な父親と、過干渉な母親」
両親のことを、Yはそんなふうに表現した。
 
父は普段、ほとんど子育てに参加しない。にもかかわらず唯一、食事のマナーにだけは異常なほどの厳しさを見せた。何気なく箸を進めていると、突然「なんだその食べ方は!」と雷が落ちる。上の兄と姉に至っては、言葉のみならず、父からずっと体罰を受けてもいた。Yはいつも、それを真横で見ながら育った。
そんな父親と対象的に母親は優しかった。優しすぎて、母のそばでは息ができなかった。過剰なまでの家族への献身はその実、誰のためでもなく、母自身のためのものだったと、Yは今ならわかる。
 
母は毎晩、何時間も台所に立ち、何種類もの夕飯のおかずを作った。明るい会話、テーブルいっぱいに並べられた料理。家族の食卓は、そういうものでなければならないと思い込んでいるようだった。少食のYには毎回とても負担だったが、母は完食しなければあからさまに悲しみ、時に涙を見せながらこんなふうに言った。
 
「どうしてYちゃんはママの気持ちをわかってくれないの? ママはこんなに頑張ってるのに」
そんなわけだから、Yにとっての家族の食卓というのは、物心ついた頃から、苦痛以外の何物でもなかった。
親に土下座して、全寮制の高校へ
 
“早くこの家を出たい。この家はおかしい”
ずっとそう思い続けたYは、中学3年生のある日、大きな決意を固める。両親の前で土下座をして、全寮制の私立高に入学させてくれと頼み込んだのだ。無事、第一志望の高校に入学したYは、寮に入って初めて、心の底から安心して過ごせる毎日を手にした。
 
気のおけない級友たちとの毎日は、このまま時が止まってほしいと願いたくなるほど楽しかった。しかし3年はあっという間に過ぎ去り、卒業とともにYは、実家から車を少し走らせた場所にある、地元の企業に就職した。大学に行きたくないわけではなかった。しかし経済的にも、家に戻らないためにも、それしか選択肢がなかった。
 
「それでも、就職してしばらくはうまくいってたんです。少しまぬけで、いじられキャラのYちゃんとして、みんなにかわいがられて。だけど、その頃に友達の紹介で知り合った元夫と付き合うようになって……」
答え合わせをするかのように、一つひとつ思い出しながら、Yは話す。
 
「大黒摩季の“あなただけ見つめてる”っていう歌、知ってます?」
「知ってる、世代だもん」
 
“あなただけ見つめてる”は、付き合った恋人に言われるがままにメイクをやめ、髪型や服を彼好みに変え、彼が嫌う友人とは絶交する。支配的な恋人を何一つ疑うことなく妄信する女性を描いた歌だ。1994年に発売され、当時爆発的な人気を誇ったアニメのエンディングテーマにも起用された。
 
「本当にバカだなって思うんだけど、あの歌を初めて聞いたとき、私のための歌だって思ったんです。初めて付き合った人だから、おかしいな、これって普通のことなのかなって思いつつ、元夫のわがままを全部受け入れていました。そんなときにあの歌に出会って、“そうか、私みたいな人は、こんな人気アニメのエンディングテーマになるほど一般的なんだ、普通のことだったんだ”って、安心したんです」
 
「え、だけどあの歌は、そういう女の子に活を入れる歌なんだと思ってた。だって曲の最後は……」
 
「“行けっっ! 夢見る夢無し女!!”。私は、自分が紛れもない夢なし女だって自覚があったんです。だから、そんな自分に向けられた応援歌だと思っちゃった。それにあの歌のまんま、彼のことをおかしいって言ってくれる友達とは次々に縁を切ったから、気づいたときには、まわりに正しいことを言ってくれる人は、一人もいなくなってました」
小さく苦笑いしながら、Yは話を続ける。
 
10年後についにやってきた限界
Yはその恋人と結婚し、息子を産んだ。けれども子どもを産むまでも、そして産んでからも、夫は一向に定職に就かず、好きなようにYの稼いだお金を使い、好きなときに浮気をした。それでも実の母親から、女は、妻は、母は、ただひたすら家族に献身するものだと無意識に刷り込まれていたYは、絶えず湧き上がる違和感にかたくなにふたをしながら、夫に振り回される結婚生活を、約10年続けた。
ついに限界が来たと思ったのは、夫が、機嫌に任せて、息子に手を上げるようになったからだ。
 
「このまま一緒にいたら、息子を守れないと思った。それで、別れようって決めたんです」
別れても、当初は実家に帰るつもりなど毛頭なかった。ところが長年の心労がたたってか、離婚直後からYはしばらく病に伏してしまった。それまでどおり仕事に行くことも、また息子の世話を焼くこともままならなくなり、やむをえず実家に頼らざるをえなかった。
 
再び始まった、両親との暮らし。不安がないわけではなかったが、自分が子どもだった頃からは随分時間も経っている。両親は孫のことも、かわいがっているように見えた。だからきっと、昔とは違うだろう……Yはそんな、一縷(いちる)の望みにかけた。
 
そして最初のうちは、確かに変わったように見えた。けれども、やっぱり両親は、かつての両親のままだった。そう気づかされたのは、実家に戻って以来、息子がどんどん、ふさぎがちになっていったからだ。
 
「息子はもともと人一倍、感覚が敏感な子どもだったんです。病院で、発達に偏りがあるとも言われていました。繊細で、こだわりも強くて、育て方に悩むことはそれまでにも何度もありました。でも、実家に戻るまであんなことはなかった。……ご飯が、食べられなくなってしまったんです」
 
厳密には、お菓子やアイスなら食べることができた。ただ、Yの母親の手料理だけを、まったく受け付けなくなったのだ。
Yに、その理由がわからないはずはなかった。
 
かつて、子どもだったYにやったのとまるで同じように、孫に、自身の献身を一手に引き受けさせようとしていた母。そして同時に父もまた、かつて自分たち兄姉にやったのと同じように、食事中の息子に声を荒らげ……そしてあとからわかったことに、Yの見えないところで、体罰を加えてもいた。
 
何とか息子を守らなければと焦る気持ちとは裏腹に、Yの体は思うように動かない。
「お母さんと、ここに引っ越そうか」
 
そんなあるとき、居間でテレビを見ていた息子が、独り言のように言った。
「わあ、いつかこんなところに住んでみたいなあ」
 
画面に映っていたのは、東京郊外のとあるベッドタウンだった。今から70年ほど前、第1次ベビーブームの頃に、最も栄えた街。けれども、ずっと九州の田舎町で暮らしていた息子の目には、そこがとても都会的な、魅力あふれる街に映ったようだった。近くには大きな図書館とショッピングモールがあって、少し車を走らせれば、ディズニーランドにだって行ける。
ままならない体を布団に預けたまま、ぼんやりと息子の声を聞いたYは、気がつくと口に出していた。
 
「お母さんと、ここに引っ越そうか」
言った途端、不思議と体が軽くなった。体の隅々にまで、じわじわと体温が戻ってくるような、そんな気がした。
 
「絶対に無理よ」
「あなたに東京で暮らせるはずなんかない」

母親はありとあらゆる言葉でYを引き留めようとしたが、Yの決意は揺るがなかった。実家のある街から何百キロも逃げて、縁もゆかりもない東京の片隅に、やっと、自分と息子の、小さな城を見つけた。古くて狭い。けれど、日当たりは抜群にいい。臭くない。
そんな家で迎えた、Yと息子の記念すべき最初の食事は、カップラーメンだった。Yはカレー味、息子はシーフード。それぞれのお気に入りのカップラーメンを、引っ越しの段ボール箱をテーブルにして、食べた。実家の母親が見たら、きっと顔を真っ赤にして怒るだろう。だけど、だからこそ、カップラーメンはYと息子の、最高のごちそうだ。
 
“私たちはここにいます”
東京に出てきたばかりのYは、初めて会う私に、力を貸してください、と言った。後に聞けば、彼女はそれまでにも、病院や学校、行政など、何カ所も尋ねて歩いていたが、思うような支援が得られなかったり、さらに傷ついたりすることも、決して少なくなかったという。
 
“それでも、私が何とかしないと”
そのたびにYは、折れそうになる心を、何度も奮い立たせてきた。
思えば、初めて彼女からのメッセージを受け取ったとき、静かで淡々としたメッセージの中に、私は彼女の、こんな叫び声を聞いた気がした。
 
“私たちはここにいます”
自分たちに目もくれない大勢の人に向かって。自分たちを、見たいようにしか見ようとしない、大勢の人に向かって。人一倍傷つきやすい、ガラスのような心を持った息子を守りながら。自身もまた、今にも崩れそうなほどボロボロになりながら、私たちはここにいます、と、東京の片隅で必死に助けを求める彼女の声が、聞こえてくるような気がした。
 
私はそんなYの勇敢な決断を、何とか正解にしたい。
さんざん苦しみ、悩んだ末に、自分や、自分の大切な存在の毒となるつながりを断ち切った人が、その先できちんと報われて、幸せになってほしい。自分の下した選択は正解だったのだということを、微塵も疑わずに済む世界であってほしい。
 
とても一人では抱えられない現実に直面したとき、「ほら見たことか」と後ろ指をさされるのでなく、誰かに助けを求めれば、誰かがその声にきちんと耳を貸してくれる。そんな世界に、自分もまた生きていると、信じたい。だから私は新宿で話したあの日からずっと、Yの決断を、どうにか、正解にしたいと思っているのだ。