そのかわいらしい二階建ての長屋は、金沢の繁華街からやや離れた住宅街にありました。太平洋戦争のとき戦火を免れた金沢には、今もこんな風情ある家屋があちこちに残っているといいます。中に上がらせてもらうと、タイムスリップしたかと錯覚させる木の階段や和だんすと、近代的なダイニングキッチンが、しっくりと併存していました。
星夏子さん(仮名・56)がこの長屋に暮らし始めたのは、母親を看取った2年前から。甘く香る黒豆茶をいただきながら、幼いときから強い愛憎の対象であった母親について思うことを、聞かせてもらいました。
奔放だった母親
「物心がついたときには、父は街中で料理屋をやっていて、昼間の配達や買い物を母がしていたんですね。着物を来て、割烹(かっぽう)着を着けて。3歳くらいだった私は、よく手を引かれて付いて回っていました。
そうしたら、ある場所に連れて行かれて、そこに男の人がいて。二間くらいあった手前の部屋のテーブルに、母が紙と色鉛筆か何かを置いて、『あなたはここで絵を描いていなさい』と言う。奥で何かをしていたんでしょうね、きっと。帰り際に『今日見たことはパパには内緒だから』と言うんです。同様のことが、何回かありました」
子ども心にも「なにか後ろめたいことをしている」という感覚があったそう。あるとき父親から「どこに行ってた?」と聞かれ、「ママ、知らない男の人とお酒を飲んでいた」と答えると、「父の顔色がザーッと変わった」ことを覚えています。
父親は、母親のことをとても愛していました。母はかつて別の人と結婚していましたが、父は待ち続け、帰ってきた母を受け入れて結婚したのだと、夏子さんは聞いています。
「そこに写真があります」と言われて振り返ると、壁の一角に、和服を着てほほ笑む女性の遺影が。銀幕のスターかと思わせる、美貌の人でした。
当時、夏子さんは両親と弟の4人家族。父親の親族たちとともに3階建ての長屋に住んでいましたが、夏子さんが小学校に入った年、父の長兄が事業につまずいて、担保に入っていた家を立ち退かなければならなくなります。
1階で店をやっていた父親は、借金をして、別に店を構えることになりました。
「このままじゃらちが明かない、と思ったんでしょうね。私も仕事をする、といって母親が水商売を始めるんです。ちょうどすごくバブリーな時期で、母親も商売が上手かったので、うなぎ上りに成功していきました。最初はカウンターだけの小さい店だったのが、女の子を雇うようになり、クラブみたいなものを始めて、どんどん大きくしていって」
母親の浮気は、その後も相手を変え、続いていました。理解しづらいことですが、母親はよく、浮気相手に夏子さんを会わせていたそう。
「最初の人以降、たぶん私、5人くらいは会っているんです。よく覚えているのは、高級フレンチの店に連れて行かれたときのこと。まだ小学校1、2年ですから、ナイフとフォークではうまく食べられなくて、こぼしてしまった。子どもながらに考えて、布(ナプキン)で拭いたら、あとで母親にすごく褒められたんですね。自分の愛人の前で、娘が粗相をしなかったことがうれしかったようです」
相手はいつも、料亭の旦那さんや会社の社長など、お金をたくさん持っていそうな人ばかり。母親は地元の名家の出身でしたが、明治維新以降、一族は生活に窮し、大変な苦労をして育ってきたそう。お金にこだわったのは、その反動のようなものではなかったかと、夏子さんは考えています。
父親の死の真相
父親が亡くなったのは、夏子さんが11歳のときでした。
「父が死ぬ一週間前、夜中にすごい大げんかをしていたんです。父が『僕はこんなにママのことを愛しているのに、ママはそうじゃない。別れるから』と言って、出て行ってしまった。私と弟は泣いて待つんですけれど、一週間後に母から『父親は脳出血で死んだ』と言われて。私は腑に落ちなくて『なんかおかしい』と思っていたんですけれど」
自殺とわかったのは、小学校6年のとき。母親の引き出しの中から、父親の遺書を見つけたのです。
「当時母は商売が忙しく、私や弟にご飯の用意もしてくれず、ただお金が置いてある毎日でした。夜いないとき、私は母が恋しくて、よく布団や洋服を出して匂いを嗅いだりしていたんですが、そのとき母の引き出しの中に、父親が私と弟に宛てて書いた手紙を見つけ、これは人が死ぬ前に書く手紙のようだな、と思って。繰り返し読んで、自殺だということはわかりました。そこには『パパとママとのことは、大人になってから必ず真実を話してもらいなさい』と書いてありました」
しかし、母親自身の口から真実を聞くことは、ありませんでした。夏子さんは20代のころに一度、父方の祖母から、母親と浮気相手が息子(夏子さんの父)を自殺に追いやった、という話は聞いていたのですが、その人物が誰なのかは、まだわからなかったそう。
真実を知ったのは、父の遺書を見つけてから約25年後。夏子さんが37歳のときに母親が癌で入院した際に、問題の人物が“借金の保証人のサイン”を求めて母の病室を訪れたのです。このとき、夏子さんの中で「全部、一度につながった」そう。それは、かつて店で働いていた「父親の弟子」。父を死まで追い詰めたのは、妻と、弟子の浮気だったのでした。
子ども時代、食事や弟の弁当の用意、給食袋の縫い物など、家のことはすべて夏子さんに任されていました。小学生のころは母方の祖母がときどき家を訪れていたのですが、よく怒鳴り散らし、子どもたちをストレスのはけ口にする人だったため、夏子さんが母親に「中学生になったら全部自分でできるから、もうおばあちゃんに来なくていいと言って」と泣いて頼んだのです。そのため母親は、夏子さんが代わりに家のことをするのを当然と考えていました。
「中学生の頃、グレてみようとしたときもあったんですけれど、この人(母)は私たちがどうなろうと気づかないな、と悟りました。気づいてほしいからグレるわけじゃないですか。でも母は、私が髪をオキシドールで脱色しても全然気づかない。だから『グレるって、一種の甘えだな』と思っていました」
自我が芽生え、ようやく母親に反抗できるようになったのは、学生時代のフランス留学がきっかけでした。
なお留学するまで、夏子さんには「普通の家庭の人に対してすごくコンプレックスがあった」のですが、フランスでは未婚のシングルマザーなども“普通”の存在でした。「うちがすごく変わっていても、それがどうした? という感じだった」ので、とても居心地よく感じたと言います。
鬱のなかで得た新たな視点
母親が他界したのが、今から約3年前。その少し前から、夏子さんには鬱の傾向が出ていたのですが、母親が亡くなって約1年後、症状が最も重くなりました。
「結局それまで私を支えていたのは“母に対する憎しみ”という感情だったので、その対象がいなくなったら、支えがなくなってしまった。別れた夫ともいろいろあった時期で、死にたい願望が出て、ちょっとやばかったんです」
しかしその頃、本を読んだり人に会ったりする中で、自分の考え方を変える、いくつかのきっかけに出会えたといいます。
その1つは、アドラー心理学の本で読んだある話でした。カウンセリングを受ける人には「悪いあの人」と「かわいそうな私」という視点しかないのですが、それだけでは問題は解決しません。必要なのは「これからどうする」という視点だ、という話です。
「今の私がこうなのは、これのせいだ、と理由付けをしている間は、心地いいんですよね。怠惰であろうが、反社会的な行動をしようが、自傷行為をしようが、『みんなあれのせい』と言っている限り自分は何の努力もしなくていい。ある意味、安泰なんです。
でも、もっと違う生き方もあるんだと、今は思います。今の私は、『これからどうする』しか考えないことにしています。私を幸せにするのは私、というふうにシフトしなければ、自分の尊厳を失って、流されるだけの人生になってしまう。うちの母は、ある種の性的虐待とネグレクトをしてきたわけですが、でもだからといって『それは私から何も損なわなかった』と、今は確信します。それは、私が決めることだから」
新たな視点を得て回復した夏子さんが、いま改めて振り返ると、母親の存在はやはり、とても大きなものでした。
「母が仕事をしている姿はすごく好きだったんですよ。ある種の成功者というところも、尊敬というか、『やるな』と思っていたし。一方で私は水商売が嫌いだったから、母をさげすんでもいました。でも、トータルでは母を愛していたんだと思うんです。だからこそ憎むしかない、という表裏一体な感じ。私を作ったのは、母に対する憎しみの感情と、愛への飢えだったんだろうな、と思います」
夏子さんからもらったメッセージには、「すべてにイエスと言って死にたい」という言葉がありました。どういう意味か、と尋ねると、「これからいかにすばらしい人生を生きるか、ということにしか目を向けない決意」だと説明してくれましたが、それは同時に、「過去のすべてをそのまま受け止める決意」ともいえるのかもしれません。