幼少時代、貧しかったとしても、笑顔になれるご馳走があったーー。母が、父が、祖母が作ってくれたその料理は、質素でありながらも、彼らにとって忘れることのできない思い出として残っている。そんな「貧困飯」を、悲しくも愛情に満ちた数々のエピソードとともに紹介する。
 

イモの煮もの

《イモの煮もの》煮干しで出汁をとったイモの煮ものは素朴でおいしいが、毎日3食、イモを食べ続けるのはツラいだろう

ガリガリの私を救ったのはイモの煮物でした


――佐久間順子さん(仮名・54歳・岡山県生まれ・小売店勤務)

「私、子供の頃の記憶がはっきりしてないんです。なにを食べてたとか、ほとんど覚えてなくて」

 佐久間さんは、岡山の地方都市に生まれた。父親は役場に勤める地方公務員。同居していた祖母は年金受給者で、世間的には中流家庭といっていい。ところが家族は彼女にまともな食事を一切、用意しなかったという。

「母親は私を産んだあと、腎臓を悪くして、ずっと入院したまま私が10歳の頃に亡くなりました。祖母は、息子である父の食事しか作りませんでした。父親は仕事が終わると、『飲む、打つ、買う』で、毎日、夜の街へ繰り出して夜中まで帰ってきませんでした」

 いまなら「ネグレクト(育児放棄)」として児童福祉士が保護するほどひどい環境に置かれたのだ。

「家の前に雑貨屋さんがあって、そこのおじいさんが見かねたのか、よく賞味期限切れの菓子パンとかをくれたことは覚えています。おそらく当時の私は、普段、学校の給食しか口にしていなかったと思います。実際、ガリガリにやせ細っていて、勉強もまったくできなかったし、結構、イジメられていたはずです……」

 

こんなネグレクトが続けば、給食のない夏休みは、文字通り「命」にかかわる。

「だから、夏休み中、父親は母方の実家に私を預けていたんですよ。母方の祖父母は70歳を超えていて、ずっと私を引き取ることは難しかったようですが、夏休みだけは面倒を見てくれました」

 佐久間さんはそこで生まれて初めて「家庭料理」を口にする。祖父母はやせ細った孫に愛情を込めた食事を用意した。

里芋「山間部の農家で、一番近いお店に行くのも1時間ぐらいの道のりがあって、たいていは畑のものを食べるんです。祖父母の家も貧しかったと思います。毎日、食事にイモの煮ものが出るんです。

 朝、昼、晩、毎日、イモ、イモ、イモ(笑)。特に里芋が多かったですね。『里芋はたんと栄養があるけえ、いっぱい、食いんさい』って。そして祖父が晩酌しながら、ニコニコして『おいしいか』と聞いてくる。

 それが嬉しくて。本当においしかったなあ。でもね、大人になってからは体がイモ類を受け付けないのか、食べられないんです」

 佐久間さんが喜んで食べていたのは、幼い彼女の命を救った「家庭の味」であり、かわいい孫を心配する祖父母の「肉親の情」だった。

「幼少期の記憶はほとんどないんですが、祖父母と一緒に食べたイモ、それだけが私の色づいた記憶なんです」

★佐久間さんの貧困川柳『母死んで 私を救った 祖母のイモ』