からん やけに軽い鈴の音が鳴る。
焦げ茶色の木製のドアが開けられた証だ。一人の男性が入ってくる。この店の年齢層から外れる、若い男性だ。二十代くらいだろうか。その男性……いや青年というのがふさわしいその人物はいくつかの暗めのオレンジの光に照らされる薄暗い店内をゆっくりと歩く。
音楽が流れる中、カウンターに近づく青年の足取りは慣れているかのようだったが、一度その足を止めた。その目はカウンターのある席に向けられている。そこには一人のひげ面の男が座っていた。青年が足を止めたのは三秒で、すぐにまた足を進め出した。そしてカウンターの椅子に腰かける。一つ席を開けた左側にはひげ面の男。
 
「ビフィーターでジントニック」
「かしこまりました」
 
カウンターの向こうにいるマスターは白い口ひげを生やした眼鏡をかけた男性だった。青年の注文を受けて軽く頭を下げる。
それから酒が出てきてから、青年は先程のこと以外何も話すことなく黙っていた。グラスを片手に、じっと目は固定して。
店内には他にテーブル席がいくつかある。そのテーブルは全て埋まっているわけではない。そしてそのテーブルについているのはいずれも最低でも三十は超えているような歳の人びとで、男性の方が圧倒的に多い。いずれも常連のような雰囲気だ。
 
「兄ちゃん何だか慣れてるな」
 
マスターが他のカウンター席の客に声をかけられたのとほぼ同じくして、青年は男に声をかけられる。一つ席を開けた左側の席の男だ。青年は静かに目を向ける。
 
「そうですか? 知り合いに教えてもらった店なんです、実は」
 
青年は店内を見回してからまた男に目を戻す。
 
「へえ、そうなのか。よし、ここはひとつ俺が奢ってやるよ」
 
ひげ面の男はどうやら少し酔いが回っているらしく、呂律が回りきっていない。青年は酔っぱらいの男の様子にも嫌な顔せずに微笑する。
 
「いえ、それはさすがに」
「ただし、ただじゃねえよ」
「え?」
 
男はにんまりと笑う。青年は思わず呆けた声を出す。
 
「俺の話を聞いてもらう代わりだ。どうだ?」
 
男が持つグラスの中の氷がからん、と音を立てる。グラスの中の液体はほぼない。青年は自らのグラスに目を移して、これをじっくり飲む間に酔っぱらいの話も聞くのもいいだろうと軽い気持ちで頷く。説教を垂れ流されるのでなければ、と。
 
「では聞かせて下さい」
「おうよ」
 
男はすぐに話し始めるのかも思ったが、マスターを呼んで酒をまず追加注文した。その間、青年は声をかけられることなくテーブル席から聞こえる声を聞いていた。時おりそれは大きくなる。だが小さくなることはない。
 
「最初は狩りをして暮らしてた」
 
青年が目を伏せて待っていると、急に男が話し始める。口調がとても静かだ。青年は男に目を向けるが、男は青年を見ていなかった。グラスに満ちた液体を見ている。そしてその顔には笑みはなく、目はここではない場所、どこか遠い場所を思い出しているようだった。
 
「時には動物を狩りに出かけ、時に米を育てた。冬に備えて。一度熊に襲われたことがある」
 
男は昔は猟師でもしていたのだろうか。そんな話をし始める。だがその目は懐かしむようなものではない。声も。口調も。
 
「そのあとはしがない農民として畑を耕す毎日だった。時には不作で食べ物がなくなったときがあった」
 
青年は男をじっと見ることをやめて、酒をゆっくり飲みながらそれを聞いている。店内は騒がしい。
 
「そのあとはある高貴な方の元で下働きをした。眠る時間がほとんどないほどにこき使われた」
 
どうやら男は生活、職業を転々しているのか、話がころころと変わる。青年はちらりと横目で男を窺う。すると男の目は最初にも劣らず、いやますますここではないどこかを見ているようだった。
 
「そのあとは、何だったか。ああそうだ、商人として商いをしていた。そのときはとても良かった。俺は国一の商人になった」
 
男の口元に微かな笑みが浮かぶ。それと共にようやくグラスを口に運んで液体を少し口に入れる。喉が動く。男は余韻に浸るようにしばらくそのままでいて、それからグラスを置いた。
その口元から徐に笑みが消えていくのを青年は見た。
 
「そのあとは大きな家に住む金持ちだった。しかし親のせいで転落するのはすぐだった」
 
男がグラスを揺らしたことによって氷がグラスに当たって涼しげな音が二人の間に落ちる。
 
「次はどうやらまた農民だった」
 
青年はそこで僅かに語りに違和感を覚える。
 
「農民の暮らしの厳しさを知っていたからすぐに止めた。どうせまた次がある」
 
コン 男が揺らしていたグラスから手を離す。
 
「そうすれば今度は南の方の地を治める家だった。まあまあだった、が攻め込まれて十年ほどだった」
 
男の語りは止まらない。店内には音楽と客の声が混ざり満ちている。
 
「それから何回か過ごす内にどうやら周りが変わってきた。次になったとき、俺は別の世界に来たような感覚に陥ったものだった」
 
男の目はだんだんと光が戻ってくる。遠くを見ていたようなものが薄らいできた。
 
「だがまた戦いが始まった。俺は戦いに行くことになった。何度か」
 
男はグラスから手を離したままだった手でグラスを探し始める。ゆっくりと。
 
「次のときはもう戦いなんてなかった。俺は普通といわれる家にいた。たいして何もない日々だった」
 
男の手がグラスを掴む。
 
「それが幾度か続いた。病気になったこともあった、仕事がなくて飢えることも、突然車が突っ込んでくることも」
 
男の手は止まる。
 
「俺は気づいた。一度としてこの身が老いるまで《生きた》ことがないと。安らかに眠ったことも」
 
男の手が微かに震える。
 
「俺がこの先何かで死ぬのなら、俺は今日ここで浴びるほど酒を飲む」
 
男は自らを嘲笑うかのように口元を歪める。その目にはうっすらと光るものがあり、その目はまたどこをも見ていない。
 
「金がなくなるほどに。そして退路を絶って?」
 
青年が口を開く。いつの間にか彼は頬杖をついていた。その顔も目も男には向けられていない。
 
「……おう、兄ちゃん。俺の話をここまで聞いたのはあんたが初めてだ」
 
男ははっと我に返ったかのように肩を跳ねさせ、何度も瞬きをしてそれから声のした方を見る。そこに青年がいることに驚いたように。
 
「何で聞いてたんだ?」
「だってあんたが話を聞く代わりに奢ってやるって言ったんだろ。マスター」
 
長めの髪で横顔はほとんど隠された青年。口元さえも頬杖をついた手で隠されて見えない。なぜか口調が丁寧なものではなくなった青年が他のカウンターの客の元にいるマスターを呼ぶ。
いつの間にか青年のグラスの中には酒はなかった。
 
「バーボンロックで」
 
マスターに酒を注文して、マスターがそれを準備しに行こうとしたところで、青年が言葉を続ける。
 
「マスター昔この店でそんなに金ないのに破産するほど飲んで、次の日川に飛び込んだ人いましたよね」
「ええ。何十年か前の話ですがね。よく知っておられますね」
「叔父がここの常連で、色々と」
「そうでいらっしゃいましたか」
 
短い話を終えてマスターはその場を離れる。
 
「知ってるも何も《俺》だからな」
 
そのやり取りをぼーっと聞いていたひげ面の男はその聞こえてきた言葉に青年に目を向ける。
青年はそれに気がつき、しかしゆっくりと顔を男に向けてみせた。その口元には緩い笑み。
 
「川に落ちたあとは病院で目覚めた。赤ん坊でじゃない。そのままでだ。そこで運命の出会いをしたってものだからあんたもするならすれば?」
 
青年は体重を後ろにかけてポケットから煙草の箱を取りだし、そこから一本出して加える。
そしてぶつくさと一人言のように呟く。「二十歳になって来てみれば俺のお気に入りの席にどこかのおっさんが座ってるは酔っぱらいの退屈な話かと思えば……」そこで青年の前に酒と灰皿がくる。
一度口を閉じた青年は頬杖をつき、目を見開く男に向かって言う。
 
「それとも、俺が猿だった頃からの話聞いてからにするか?」
 
まるで男の人生の先輩であるかのように。
ひげ面の男より男らしく。そしておっさん臭く青年はニヒルに笑って見せた。