西日本を豪雨が襲い、各地に大きな被害をもたらしている。兵庫県では、80年前の1938(昭和13)年7月にも、3日間降り続いた豪雨による濁流や土石流が街を襲い、600人を超す人が犠牲となる「阪神大水害」があった。朝日新聞社には、当時撮影された写真や映像が多く残る。フィルムに焼き付けられた記憶は、今の私たちにどんな教訓を伝えているのか。何枚かの写真を選び、考えた。

 

 

 ズボンをたくし上げた裸足の少年たちが、巨岩の転がる道を歩いていく。泥水の中を進んできたのだろうか。右端の子は左手に、左端の子は肩に、靴を下げている。

 
 道の真ん中には路面電車のレール。停車場を示す石柱には「灘中学校前」とある。現在の神戸市東灘区甲南町5丁目付近、国道2号上にあたる。
 写真は、38年7月5日撮影。巨岩はその日午前、写真奥にある住吉川から押し流されてきた。濁流とともに流れ下った巨岩は住吉川沿いにあった財界人らの豪邸を次々に破壊。堤防は数カ所で決壊し、濁流が街をのみ込んだ。
 

 

■砂防ダム・植林…「防災力」は進んだが

 そして、80年。六甲山には阪神大水害以降、約千基もの砂防ダムが設けられた。斜面崩壊を防ぐ工事や、植林も進む。大水害の被害を教訓に、「防災力」は前進した。しかし、災害への警戒心を常に維持するのは簡単ではない。今回の西日本豪雨の取材時にも、一気に水かさを増した河川に向かってスマートフォンをかざし、歓声をあげる若者たちの姿を目にした。

 住吉川沿いにある甲南小学校の校庭の一画。木漏れ日に包まれるように、大きな石碑が立っている。大水害で同小は児童ら計8人の犠牲者を出した。石碑は、その悲劇を繰り返さぬために大水害の5年後、建立された。碑文には、「常に備へよ」とある。文字が刻まれているのは、あの日に流れ下った巨石だという。