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ありし日の大鰐温泉郷(1969年2月・青森県史編さん資料)平川沿いの2階建ての大きな建物が加賀助旅館。現在跡地は駐車場になっている |
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ありし日の後藤旅館(2007年7月1日 中園裕氏撮影)弘前の北州楼(1899年頃建築)を移築したという。2011年に解体 |
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戦前の大鰐もやしを売る店(昭和戦前期・青森県史編さん資料)現在、もやしは「鰐come」などで購入できる |
▽多い共同浴場
弘前の奥座敷として利用されてきた大鰐温泉。1954(昭和29)年の大鰐町と蔵舘町の合併以前は、平川を挟んで、大鰐温泉と蔵館温泉(現在のヤマニ仙遊館の辺り)に分かれていたが、市町村合併で一体化している。
大鰐温泉は昔ながらの共同浴場が多いのが特徴で、大鰐地区に4カ所、蔵館地区に2カ所の計6カ所もあり、さらに2004(平成17)年にオープンした温泉保養施設「鰐come」もある。
江戸時代の紀行家菅江真澄は、1796(寛政7)年に大鰐へ宿泊した際、湯坪(源泉)は7カ所あると記したが、大湯や山岸の湯(山吹の湯)のように、現在の共同浴場に名前を残しているものもある。
▽江戸時代の大鰐温泉
江戸時代後半の温泉の見立て番付「諸国温泉効能鑑」には、全国86カ所の温泉が挙げられているが、「津軽大鰐の湯」が行事の一人として名前を連ね、別格の扱いである。他に、倉立湯(蔵舘)は「諸病によし」と高い評価である。かように大鰐温泉は江戸時代から名湯として全国に知られていた。
大鰐は弘前藩主の参勤交代路にあたることから、藩主の湯治場として利用され、滞在のための施設「御仮屋」が置かれた。『大鰐町史』中巻によると、「弘前藩庁日記」等で確認できる歴代藩主の湯治は27回を数えるという。
特に3代信義は晩年の3年間、津軽生活の半分以上を大鰐に滞在し、大鰐温泉が発展するきっかけを作ったという。1844(天保15)年の時点では、大鰐と蔵館の湯小屋は38軒となり、しばしば湯治客で満員になった(同書)。
▽近代の大鰐温泉
1895(明治28)年に奥羽本線大鰐駅が開業すると、弘前から手軽に行ける温泉地として、大鰐温泉はますます賑(にぎ)わうようになった。江戸時代の大鰐温泉は、藩によって遊女の入りが厳禁されていたが、一転して明治以降になると大鰐は歓楽の地となった。
大正の初期、現平川市の豪農外川平八が「外川町」という歓楽街を作り、1923(大正12)年には16軒の旗亭(芸妓を置く料理店)があった。温泉の濫掘(らんくつ)が進み、早くも温泉掘削が禁止されるに至ったのもこの時期である。
現在は解体されたが、大鰐を代表する老舗旅館であった後藤旅館の建物は、この時期弘前の遊郭の建物を移築したものだった。終戦後、1958(昭和33)年には売春禁止法が施行され、大鰐温泉にあった業者も廃業し、温泉街も火の消えたような寂しさになったという(『大鰐町史』下巻(一))。
加えて度重なる平川の水害、濫掘による湧出量の減少が追い打ちをかけた。そのため、町は1964(昭和39)年から温泉の集中管理に踏み切ったが、維持管理料をめぐって温泉業者と町当局が対立するなど、温泉街の体力を奪ったことは否めない。平成に入っても、「スパガーデン湯~とぴあ」の破綻など苦難の歴史は続いたが、「鰐come」を拠点に町おこしグループ「OH!!鰐 元気隊」が活躍するなど、町活性化のための挑戦が続いている。
▽大鰐もやしの歴史
大鰐温泉の名物として知られているのが、温泉熱を利用して促成栽培された長もやしである。大鰐もやしのルーツは意外と古い。大鰐は津軽領では南端にあたり、温泉熱も利用できるので、季節的に早くもやしをはじめとする野菜類の栽培ができる。このため藩にとっては貴重な存在であり、大鰐には17世紀中頃から藩主専用の野菜園(御菜園)も造られ、弘前城の台所や江戸屋敷に献上されていた(『大鰐町史』中巻)。
野菜園の管理人「御菜園守」を勤めていたのは、伝説では大鰐温泉の発見者と言われる加賀助(代々襲名)である。加賀助は御仮屋(おかりや)の管理人も勤めた。加賀助旅館は戦前までは大鰐を代表する老舗だったが、残念ながら1984(昭和59)年に閉館している。
1788(天明8)年に弘前藩士比良野(ひらの)貞彦が津軽の文物風俗を描いた「奥民図彙(おうみんずい)」では、もやし箱(筥)について紹介されている。もやしは賀田(よしだ)(現弘前市)や大鰐の辺りで多く栽培され、女性が背中に背負って売り歩いたという。昭和期までは湯見舞といって湯治中の人を親戚や友人が見舞う風習もあったが、土産はもやしが多かった(『青森県史民俗編 資料津軽』)。
幕末期、大鰐温泉に滞在した家老大道寺族之助(やからのすけ)も、湯見舞客へのお礼として、もやしと木地挽(きじびき)細工物(木工品)を沢山(たくさん)購入している(「金木屋日記」)。木工品もまた大鰐の名物であり、明治になってからはこけしも作られるようになった。現在、大鰐もやし(大豆・そばがある)は伝統野菜として、後継者不足に悩まされながらも、大鰐の名物として定着している。
温泉に浸かり、地元の味を楽しむのは旅行の醍醐味(だいごみ)である。昨今、団体観光から個人旅行に嗜好(しこう)が移り、旅行者のニーズも多様化し、旧態依然とした温泉地は全国的に苦戦している。大鰐温泉が歓楽街として栄えていたのも今は昔。現在は中心部に大型ホテルも少なく、昔ながらの湯治場の面影を残しているのでないだろうか。車社会の現在だが、日帰り入浴だけでなく、中心部のそぞろ歩きを楽しみ、旅館に泊まってはいかがであろうか。