自ら希望して、4才から音楽教室に通った。高速道路関係の会社に勤める福徳さんは転勤が多かったが、小1の夏休みに引っ越した宮崎県小林市でも音楽のレッスンを続けた。独身時代に管理栄養士だった恭子さんは夫の転勤を機に市内の高校で栄養学を教えるようになり、忙しい日々の合間をぬって週1回、娘を音楽教室に連れて行った。当時を振り返ると、恭子さんの心はチクチクと痛む。
「宮崎の教室はレベルが高く、他の子に負けたくない一心で、あすかには厳しくピアノの練習をするように言いました。夫が転勤族で近所に頼る人もおらず、とにかく母親として完璧でないといけないと思い込んでいたんですね。娘にとってはすごく窮屈でストレスの多い毎日だったはずです」(恭子さん)
母親の逆鱗に触れたあすかさんが泣き叫ぶこともしばしば。見かねた福徳さんの親は『子供の叱り方・ほめ方』という本を恭子さんに渡した。
◆ピアノを取り上げられたあすかは、牢屋のような病室でリストカットを試みた
あすかさんが中2の頃、一家は小林市から宮崎市内の現在の自宅に引っ越した。福徳さんが東京で単身赴任となり、長男が佐賀県内の全寮制高校に進学したため、母と娘の2人暮らしが始まった。
この頃、あすかさんは自傷行為を始めるようになった。
「最初は自分の髪を抜く程度でしたが、私が傷を見つけると、あすかはウソをついて隠しました。環境の変化や、いつも近くにいてあすかを守っていた長男がいなくなったことが大きなストレスになったようでした」(恭子さん)
中学を卒業して県立高校の普通科に進学すると、いじめが始まった。机の上に油性ペンで「死ね」と書かれて、制服やジャージーをはさみで切られた。不登校になったあすかさんは私立高校に転校。
苦しい日々でもピアノの練習は欠かさなかった。転校先でいじめがなくなり、ストレスから解放されるとピアノの腕前はめきめき上達。コンクールでも結果を残し始めた。
心身が回復したあすかさんは子供の頃から夢見ていた宮崎大学に現役で合格。だが、花の女子大生としてキャンパスライフを送るはずが、過酷な現実に直面する。
大学入学後、人間関係のストレスなどが重なり、何度も過呼吸発作が起きた。症状がひどいため、大学から紹介された病院の精神科を受診すると「解離性障害」と診断されて、急きょ入院することになった。
解離性障害は、何らかのストレスにより自分が自分であるという感覚が失われ、パニックになると「解離」の発作を起こして自らを傷つける。この時、単身赴任先から入院先に駆けつけた福徳さんは病室の光景に言葉を失った。
「牢屋みたいな鉄格子と簡易トイレのある病室で、コンクリートの床に2枚だけ敷かれた畳の上であすかは寝ていました。彼女は簡易トイレの上に乗って電球を手で割り、その破片でリストカットを試みたそうです。担当医は『ピアノがストレスの源』と判断し、集会室にあったピアノに鍵をかけました。ピアノを封じられたあすかは、起きている時も寝る時も楽譜を手放さなかった。その姿は不憫でなりませんでした」(福徳さん)
「日曜の深夜になると、あすかが2階から飛び降りようとするので必死に止めました。彼女が大声で泣くので近所の人が『虐待ではないか』と疑い、家に警察が来たこともあります。その後しばらく自宅前にパトカーが停車して、様子をうかがっていました。私は憔悴して、近所を歩けなくなりました」(恭子さん)
せっかく入った大学も、退学せざるを得なくなってしまった。
◆最初に頭に浮かんだのは、どうやって障害者であることを隠すか
その後、ピアノを続けたいと希望したあすかさんは、宮崎学園短期大学音楽科(当時)の長期履修生となった。そこで現在のピアノの先生である田中幸子さんと出会い、再びピアノに打ち込むようになった。
2004年、あすかさんが22才の時、オーストリアのウィーン国立大学で開かれた5日間の短期留学ツアーに参加。だが、ここで福徳さんと恭子さんは最大の試練を迎えた。環境の変化が相まって、あすかさんが現地滞在中に過呼吸発作で倒れたのだ。
日本大使館からの連絡で現地に飛んだ2人は、ウィーン国立病院の医師があすかさんに「広汎性発達障害」という診断を下したことを知った。帰国後にさまざまな検査を受けると、この診断が確定した。
娘は一時的な解離性障害であり、完治できると信じていた夫妻は、「発達障害は先天的な脳の機能障害であり、治療で治せない」という医師の言葉に大きな衝撃を受けた。
「娘は障害者だという現実を突きつけられて、治療の見込みがなくなったことがショックでした。誰にも知られたくなく、どうやって隠そうか考えました」(福徳さん)
恭子さんは真っ先に自分を責めた。
「あの子を産んだのは私なので、自分のどこかが悪くて障害のある子が生まれたのだと思いました。すごく責任を感じ、自分の何がいけなかったか、ずっと考えました」(恭子さん)
目の前が真っ暗になった2人は毎晩、答えの出ない話し合いを続けた。