「無理しないでね」という無理
「無理しないでね」と言われて反発したくなることはありますか?
こちらの事情も知らずに無責任で軽率な言葉をかけられたら、腹が立ちますよね。
「無理しないでね」に腹が立つのは、きっとそれが他人事のように聞こえるから。それを言った人が助けてくれるわけじゃない。その無責任さに怒りを感じるのではないかと思います。
私は「無理しない」という言葉をよく使います。どちらかといえば好きだし、「そうだね」と素直に納得できるから。
でも振り返ってみて思うわけです。自分がこれまで発してきた「無理しない」は誰かを苛立たせていなかっただろうか? きっと不快にさせたことが多々あったに違いない。
その人が置かれた状況を考慮しなければ、「無理しないでね」という言葉は空しいばかり。何の意味もない。むしろマイナスかもしれません。
無理はよくないのか改めて考える
「無理とは『理が無い』ということだ」
こう言っている人がいて、「なるほど!」と感激したことがあります。感激というか「そのように考えたことはなかったな」と気づかされたときの「!」です。
そう、理が無いことをしないのは正しい。いや、正しいとは限らないけれど、とりあえず道理が通らないことをするのはよろしくない。矛盾したり破綻したりすると、うまく通れないから。よって、無理はよくない。
でも、「無理はよくない」が間違っていないとはいえ、「無理しないでね」が適切ではないシーンもあります。
いま私は、汚染された川に住む魚が「このままでは死んでしまう」と陸に上がってピチピチ跳ねて命を削っているところを想像したのですけれど、どちらに転んでも幸せになれそうにない相手に「無理しないでね」と言うのは残酷です。え、何それ、ジタバタしないで静かに眠れってこと? 永遠の眠りに? って(魚が思うことはないだろうけど)。
生きていくために無理せざるをえないことはあります。無理して頑張らないと生命機能が停止する状況に置かれている人もいるかもしれません(このあたりについては、うまく話せる自信がありません。もう少しじっくり考えておきます。ここでは、こういった状況に当てはまらない人について考えます)。
でも、いろいろ問題はあるにせよ日本では最低限の生活は保障されているので、無理するのをやめたからといって死ぬわけではありません。つらい状況で苦しんでいる人を助けてくれる人や団体もあります。
もちろん社会的な死と捉えれば、こういった話は的外れです。事はそんなに単純じゃない。でもやっぱり、あくまでそれは限られた範囲のもの。心身を壊してまで手に入れなければならないかと言われれば、答えは「No」、少なくとも「Yes」ではありません。
社会的な死(自分が価値を見いだすものを失うこと)を恐れて無理した結果、本人が望まない状態になることは少なくないので、やっぱり無理しない方がいい。「無理しないでね」という声掛けが妥当かはわからないけれど。