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誰かの言葉に、静かに耳をかたむける。
ただ聴く、ただそこにいる。
気持ちがゆるむきっかけになれたら、
それだけでうれしい。
ここに綴るのは、日々のなかで出会った、
やさしい気配のようなストーリーたち。
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「……それ、本当に、知らないままでいいの?」
紅茶が冷めかけていた。
松重さんは小さく肩をすくめて、目を伏せたまま答えない。
私は、ほんの少しだけ迷った。
言うつもりじゃなかった。でも……。
「私、前にね。探偵に頼んだことがあるんだ」
その瞬間、松重さんの視線が、私の顔にピタリと合った。驚いたような、でも、それ以上に「まさか」という気配が混じっていた。
「え……本当に?」
「うん。前の夫のこと。結婚してまだ5年目くらいだったかな。なんかね、ある日ふと、全部が嘘だったんじゃないかって思う瞬間があって……それで」
静かな時間だった。
時計の音すら、やけに大きく感じた。
「自分でも、やりすぎかなって思ったよ。そんな証拠もないのに。でも、夜になると、“気のせい”って思い込むのもしんどくてさ……
それに…親がね。さっさと探偵事務所を探してきたのよ。」
「……それで、探偵を?」
私は小さくうなずいた。
「報告書が届いて、全部、わかった。
"やっぱり“って思ったけど──ちゃんと、泣いた。裏切られたことより、自分の直感が正しかったことの方が苦しかった」
松重さんは、スプーンを持ったまま、動かさなかった。
「でもね、あのとき、信じきれないまま過ごしてたら、きっともっと壊れてたと思う。自分の気持ちをごまかし続けるのが、一番つらかったから。だから私は、ちゃんと終わらせるために、知ることを選んだ。私には、それが必要だった」
しばらく沈黙が落ちた。
「もちろん、すすめてるわけじゃないよ。でも……もし、“このままじゃ自分が壊れそう”って思ったら、選択肢のひとつだとは思う」
私はそっと付け加えた。
「知らなくても、壊れることあるよ、でも…知っても、壊さないって、決めることもできるよ」
松重さんは、小さく息を吐いた。
そして、ほんのわずかにうなずいた。
「奈緒って、意外と強いよね」
「そう見えるだけ。中身はびっくりするぐらいガラスだよ。繊細なんだから。」
ふたりして笑った。
それでも、どこかで、お互いの“痛み”に触れた気がした。
「……ちょっと考えてみる。ありがとう」
そう言った松重さんの声は、いつもより少しだけ、小さかった。