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誰かの言葉に、静かに耳をかたむける。
ただ聴く、ただそこにいる。
気持ちがゆるむきっかけになれたら、
それだけでうれしい。
ここに綴るのは、日々のなかで出会った、
やさしい気配のようなストーリーたち。
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「ちょっと会えない?」
久しぶりの電話だった。
松重さん──幼なじみで、なんでも話せる相手だけど、このときは、声が少し震えていた。
「実はさ、主人……最近ちょっと変なんだよね」
そう言って彼女は、テーブルの端の紅茶を見つめたまま話し始めた。
「彼、仕事が忙しくて帰りが遅くなる日が続いてて。私もプロジェクトの山場で忙しかったから、“お互い様かな”って思ってたの。でもある日、深夜1時に帰ったら、彼、リビングのソファで寝ててさ。スマホを握ったまま。私、何度も電話したんだけど……そのときは電源、切れてたのよね」
私は黙ってうなずいた。
きっと、こういう小さな違和感から、何がが崩れていくのかもしれない。
「それにね、靴下に猫の毛がついてたの。白くて、ふわふわの、けっこう長いやつ。うちはペット飼ってないのに」
「……え?」
「次の日の朝聞いたら…“どこかでついたのかな”って言ってたけど、あの人、猫アレルギーなのよ?猫がいる部屋なんて、ほんとは無理なはずなのに……。
それが靴下の内側にまで入り込んでて。どう考えても、短時間どこかに立ち寄っただけってレベルじゃないでしょ?」
「最近は急に帰りが早くなったり、しかも、やたら優しいのよ。“これ、好きだったよね”って、お菓子のお土産なんか買ってきたりして。
あの人、そういうことするタイプじゃなかったのに……」
そう言ったときの彼女の顔は、戸惑いと不安が入り混じっていた。
「たぶん……誰かの家にいたんだと思う。猫を飼ってる、女の人の」
紅茶をひとくち飲んで、彼女は続けた。
「会社の同僚とか…ほら、私達みたいな幼なじみとか…と飲んでたんじゃないの?」
「猫の毛が落ちてる居酒屋とかある?
それに靴下脱いだりしないよね?」
彼女の声は静かだったけれど、そこに揺るぎない直感のようなものがにじんでいた。
「それに、妙に優しかったり、私の予定をやたら細かく聞いてきたり。“今日は何時に帰ってくるの?”って。前はそんなこと、気にも留めなかったのに……。なんか、探られてるみたいで」
彼女は、少し首をかしげながら言った。
「どうしよう、このまま…ほっといてもいいのかな?」
その声は、冗談のようでもあり、本気のようでもあった。私はすぐに言葉が見つからなくて、ただ静かにうなずいた。
「あなたはこのままでいいの?」
そう聞いた私に、松重さんは少しだけ笑った。
強がっているような、でもどこか救われたような、そんな表情だった。
「正直、わかんないんだよね。
問い詰めるのも怖いし、知らないままでいた方が楽なのかもって思うときもあるし。
それに……お互い忙しくて、まともに話す時間すらなかった。帰宅時間がズレるたびに、“仕方ない”って流してきたけど、こういうのって、積もるんだね。少しずつ、確実に」
「でも……」
言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。
代わりに、両手でカップを包み込み、視線を下に落とす。
「なんかさ、『なんとなく気づいてる』自分がいちばん嫌だよね」
私はうなずいた。
たしかに。気づいてしまったら、もう何も知らなかった頃には戻れない。
「両親には?話した?」
「ううん。心配かけたくないし……それに、仕事が忙しいのを言い訳にして、ずっと目をそらしてきたのかも。
でも、奈緒だったら、何も言わずに私の話を聞いてくれるかなって思って」
松重さんの声は、かすかに震えて、涙を堪えているのがわかった。