その時のことは…今も忘れていない。
言葉にするまでには、少し時間がかかった。
あの秋へと向かっていったわたしを、そっとたどってみる。
私が初めて家庭裁判所を訪れたのは、秋が深まってきたころだった。
子どものために……離婚しない。
由美と千佳にはもう相談できない。
それなら、これからは一人で向き合っていくしかない。
曇り空の下、地下鉄の階段を登る足取りは重く、家庭裁判所までの道が遠く感じた。
上手く話せるかな……。
そんなことで相談されても困ります、なんて言われたらどうしよう……。
家庭裁判所の建物に入り、廊下の奥に「家事相談室」の文字を見つける。
案内板の矢印を目で追いながら、私は静かにその受付へと足を運んだ。
「増井さん」
と名前を呼ばれて指定された部屋に入った。
部屋に通されると、まず相談員から
「家事手続案内」についての説明があった。
家庭内や親族間の問題について、家庭裁判所の手続きを使えるかどうか、必要な書類や費用のこと、ここはそういった手続きを“案内”をする場所だと。相談時間は一組あたり20分。
「離婚した方がいいかどうか、ということには答えられません」ときっぱり言われた。
……やっぱりそうなんだ。
きっと私は、"私の言葉に向き合ってくれる人"を、どこかで期待していた。
でもここは、そういう場所じゃなかった。
説明のあいだも、目の奥がジンとして、言葉がうまく入ってこなかった。
とりあえず、離婚をしないためになんとかしたいことと、いままでの経緯を話した。
相談員は頷きながら聞いてくれた。
そして……。
「離婚をしないという立場なら、調停はいかがですか?ただ、調停を行う場所は現在相手方の住居地になります」
淡々と説明を続ける相談員。
「え?ということは…山梨県まで行かないといけないってことですか?」
「そうです。」
その瞬間、心がズンと沈んだ。
山梨県。今の私には、遠すぎる。
時間も、費用も、体力もない。
それに、子どもを置いて山梨県に行くわけにはいかない。
どうすればいいのか、一瞬、頭の中が真っ白になった。
「こちらで調停をする方法なないですか?」
「ご主人が仕事が終わってこちらに戻ってこればできます。」
「多分……今の現場が終わるのでもうすぐ戻ってくると思います。」
「それなら大丈夫でしょう。」
「よかった。」少しホッとした。
でも私には…もう一つ気になることがあった。
調停であの人に会わずに済む方法なんて、あるんだろうか……。
そう思ったとき、
「ちなみに調停は原則、相手と顔を合わせずに進めることができます。調停員の方から交互に呼ばれて、控室も別です」
と、職員の方が補足してくれた。
……え?
思わず顔を上げてしまった。
直接会わなくてもいい――
これなら…相手の顔を見て、過去の言葉や態度で苦い思い出がフラッシュバックしないだろ。
「主人がこちらに戻ったらまたきます。その時に手続きを教えてもらえますか?」と私は言った。
「もちろん。」の答えを聞き、私はその部屋を後にした。
調停……。
もしかして、私は大変なことをしようとしているのかもしれない。
でも、家庭裁判所からの帰り道。
重かった足取りは、少しだけ軽くなっていた。