父が出ていったあと、
奈緒はその場から動けなかった。
呼吸が浅くなる。
胸の奥が、じわじわと痛みだす。
自分でもどうすることもできずに、
奈緒はそのまま目を閉じた。
そのとき、不意に思い出した。
あのキャンプ用品。
大きなテント、寝袋、BBQ用品。
三人で行った、初めてのキャンプ。
ぎこちなく火を起こして、
焼いたウインナーを、
「焦げた!」と笑い合った。
テントの中で、夜遅くまで、星を数えた。
(たのしかったな……)
でもそのキャンプ用品が、気づかないうちに、
家から消えていた。
あの人が…それを別の家族と使っていたなんて。
思い出が一枚ずつ手の中から崩れていく。
何が真実だったのか。
どこまでが嘘だったのか。
わからない。
わからないまま、
心の中の風景だけが、ばらばらに壊れていった。
「私……何も気づこうとしなかったんだ」
しぼり出すような声だった。
どんなにそばにいたつもりでも、
どんなに笑い合っていたつもりでも、
あの人の心が、もうここになかったことに――
私は、何ひとつ気づこうとしなかった。
疑おうとすることすらなく、
ただ『もう浮気はしない』って言われたことを信じて、目をそらしていた。
胸の奥で、静かに自分を責める声が広がった。
ほんとうは、
あの小さな違和感に気づいていたのに。
それでも、信じたかった。
その自分の弱さが、
すべてを壊したのだと、
今さらのように思い知らされる。
でも…
どれだけ心が壊れても、
奈緒には、守りたいものがあった。
子どもだ。
あの小さな手。
笑うと、目じりがきゅっと下がるところ。
わざとふくれっ面をしてみせる仕草。
全部私の宝物だ。
(離婚なんて……簡単なことじゃない)
ひとりで育てることの大変さも、
離婚が子どもに与える傷も、
想像するだけで、胸が苦しくなった。
「子どものために……離婚しない方がいい」
奈緒は、かすかに声に出した。
それは逃げではない。
必死に考えた末の、ひとつの答えだった。
だけど。
「それでも……」
小さな声が、心の底からこぼれた。
このまま、何もなかったふりをして、
壊れたままの家族を続けることが、
ほんとうに、子どものためになるのだろうか。
奈緒は、そっと目を開けた。
窓の外、街灯の明かりが遠くにじんでいる。
静まり返った部屋の空気は、冷たくて澄んでいた。
その静けさに耳をすますように。
自分の中にあった小さな問いかけを、
ゆっくり、受け止めた。
たとえ答えがすぐに出なくても、
たとえ今はまだ、怖くても――
私は、自分の足で、歩いていきたい。
これから、ほんとうに大切なものを守るために。
奈緒は、胸の奥に残る小さな痛みを、
そっと抱きしめながら、
ゆっくりと深呼吸をした。
そして、静かに、
一歩を踏み出す準備を始めた。