奈緒は、机の上に広がった報告書を、ただ見つめていた。

何度見ても、目の前の文字は変わらない。

手のひらに伝わる冷たく硬い感触。

それは、指先に残る微かな震えのせいかもしれなかった。


まただ。

その瞬間、あの日の「感情が抜けるような感覚」が、指先に蘇る。

自分の中身だけがするりと抜け落ちて、身体だけが取り残されるような、そんな感覚。


『浮気、ではなかった』

そんな軽いものじゃない。


ーー別の場所に、もう一つの家庭を持っていた。


(どうして……どうして……)


身体が冷たくなっていく。

なのに、呼吸だけがひときは大きく響く

押しつぶされた胸の奥で、苦しく空気をかき集める。


思い出す。

消えていたキャンプ用品。

家族三人で使うために、嬉しくて、わくわくしながら揃えたはずだったのに。


(わたしたちのためじゃなかったんだ……)


重たいものが、心にどんどん積み重なっていく。


(あれは、全部……嘘だったんだ)


崩れた。

音もなく、あっけなく。


壊れた景色の中に、取り残される。


「なぜ……あなたの家庭はここにあるのに……」


かすれた声が、知らないうちに漏れていた。


そのとき、父が低く言った。


「……これから、どうするんだ」


答えられない。

何もかも重たすぎて、声が出ない。

ただ、じっと息を潜めるしかなかった。


父は、深く、荒い息を吐いた。

拳をぎゅっと握り、無言で何度も開いては閉じる。


(怒ってる……当然だ。……わかってる。わかってるのに……)


やがて、苛立ちを隠そうともせず、父が言った。


「……あいつは裏切ったんだ。家族を。離婚しかないだろう。何のために探偵まで使ったと思ってるんだ。弁護士も紹介されてるだろ。さっさと相談して、慰謝料を取れ。」


叩きつけられたような言葉だった。

耳に入るたび、身体がびくりと震える。


(……わかってるよ。そんなこと……言われなくても、わかってる……)


けれど、頭が回らない。

足も、手も、心も、どこにも力が入らない。


「子どもの親権だって、当然だ。向こうに渡す理由なんか、どこにもない。」


静かな怒り。

静かな焦り。

それが、奈緒を責めたてる。


(今すぐ動けって、そう言ってるんだよね。

 わたしが、ちゃんと動かないから……)


胸がぎゅっと締めつけられる。

呼吸をするたび、胸が痛い。

なのに、ただ、うつむくことしかできなかった。


壊れた風景のなかで、

何をどうすればいいのか、奈緒にはもう、なにもわからなかった。


ただ、苦しくて、ただ、逃げ出したくて、

それでも、その場に縫いとめられたまま、動けずにいた。