所長のオフィス。
窓辺に落ちる光が、だんだんと色を失っていく。
職員がそっとノックし、ためらうように扉を開けた。
「所長、奈緒さん、大丈夫ですかね。」
所長は少しだけ眉をひそめ、書類の山に目を落としながら答える。
「そこまでは踏み込むところじゃないからね。」
職員は一瞬、言葉を飲み込んだ。
少しだけ躊躇いながら、続ける。
「……そうですね。ところで所長。」
所長が無言で目を上げる。
「奈緒さんの案件ですが、現地で変な噂を聞いたんですよ。」
所長は微かに目を細め、手に持ったペンを回しながら答える。
「噂?誰の?」
職員は息を呑み、思わず声をひそめる。
「陽一さんです。なんか……岸本さんのアパート近くの商店街で、陽一さんのことを聞き込みしてる人がいるらしいんです。」
所長はそれを聞いて一瞬黙る。
「聞き込み?何の?」
「浮気調査みたいなんですよね。」
所長の目が鋭くなる。
ペンをテーブルに置き、深く息をつく。
「岸本さんのご主人側が調査してるとか?」
職員は首を横に振る。
「それが、違うみたいで……」
所長はしばらく考え込み、顔をしかめた。
「まさか、陽一さんの会社か?」
「…会社ですか?」
所長は冷静に答える。
「浮気を理由にリストラの対象にしたいんだろ。最近、そういうの多いんだ。」
その言葉が、室内の空気を一瞬で重くした。
「……浮気調査。しかも会社絡みってことか。」
所長は椅子を少し揺らしながら、目を細めた。
「これ、場合によっちゃまずいぞ。」
「え?なにがですか?」
「社内で何か裏が動いてる可能性がある。陽一さん、単なる浮気じゃ済まないかもしれない。」
「奈緒さん、知らないですよね、そんなの。」
「ああ。知らない方がいい。深入りさせるなよ。」
職員は息を呑んだ。
「でも、もしこれが本格的な社内潰しだとしたら……奈緒さんも、巻き込まれるかも。」
所長は短くため息をつくと、机の上の資料を指で叩いた。
「俺たちにできるのは、依頼の範囲をきっちり守ることだ。感情で動くな。いいな。」
「……了解です。」
職員は黙って一礼し、静かに扉を閉めた。
所長は一人残された部屋で、そっと天井を見上げる。
「……守れたらいいんだけどな。」
かすかに漏れた声は、誰にも届かないまま、静かに消えた。
時計の針が、コツリ、コツリと、静かな時間を刻んでいた。