山に向かう道は、朝でも薄暗かった。

張り込み初日。天気は曇り。冷たい風が吹いていて、山肌に沿う細い道を登っていくと、現場のプレハブがぽつんと見えてくる。


時間は朝の7時前。依頼人の夫、増井陽一の車もその中にあった。


「ここからは、現場の出入り時間とルートを割り出して、最初の日は動きを見る」


そう決めて、交代制で張り込みに入る。


思った通り、山道は限られている。車が入れる道は実質一本だけ。

陽一の車は夕方になると、決まって山を下っていく。けれど、自宅ではない。向かう先は、隣の町。山梨県側に少し下った場所にある、こぢんまりとしたアパートだった。


初めてそのアパートに入っていく様子を見たのは、張り込み開始から3日目のこと。

運転席には彼、そして助手席には女性の姿。年齢は30代後半。


その日、彼はアパートの駐車場に車を停めた後、2人で一緒に部屋へと入っていった。

…週が明けても、陽一は同じようにそのアパートに通った。

時には途中でスーパーに寄って、日用品や惣菜を買い込む姿も見られた。


生活の匂いがある——それだけでは終われなかった。

張り込み班の一人が、こんな報告をくれた。


「夕方、女の子と一緒に帰宅するのを見ました。多分、小学校中学年くらいですね。10歳前後ってところです」


女の子——?


そこから、相手女性の素性を調べていくことにした。

彼女の名前は、岸本真理子。現場の事務員をしている。夫とは長く別居中。夫は自衛官で、現在は地方の駐屯地に赴任しているらしい。


「別居3年目。子どもは一人。夫婦関係はほとんど破綻状態にあるようです」


情報を整理しながら、こちらも複雑な思いになった。

増井陽一は、その生活の中に入り込んでいる。単なる浮気とは違う、もう一つの家庭のような日常が、そこにはあった。


調査は1か月で終了した。

毎日の行動記録と写真、映像。すべてを整理して報告書にまとめる。

報告書の表紙を閉じると、気持ちが一段落する。

だが、ここからが本番でもある。


言葉は淡々と。だが、できるだけ柔らかく。

この仕事では、「伝え方」が何よりも大切だ。

事実は変えられない。けれど、それをどう手渡すかで、受け取る側の傷の深さは変わることがある。


数日後。

事務所のドアがまたそっと開かれた。


奈緒さんは、一度深く頭を下げてから、ゆっくりと席に座った。前回よりも、どこか表情が固く見える。


「ご報告させていただきます」

報告書を開いて、最初のページにある写真を示す。

陽一と女性が連れ立ってアパートに向かう後ろ姿。何枚かの写真と日付、場所。


「この女性は、現在ご主人が勤務されている現場の事務員の方です。

勤務後、彼女のアパートで過ごしている様子が継続的に確認されました」


奈緒さんは、書類から目を離さない。静かにページをめくる。

2人が外食している写真。買い物をしている写真。


「週末は、一緒に市内まで出かけることもありました」


「……はい」


しばらく沈黙があった。やがて彼女は、小さく息を吸って言った。


「ありがとうございます」


声は落ち着いていた。


「こちらが、お相手の女性です。名前は岸本真理子さん。ご主人とは現在別居中で、自衛官として地方に赴任されています。お子さんが一人。10歳前後の女の子と一緒に暮らしています」


奈緒さんの指先が、少しだけ震えた。


「…子ども?」


「はい。娘さんと、増井さんが3人で買い物に出かける様子も確認しています」


書類の一枚に添えられた写真。公園のベンチで、お弁当を広げておにぎりを食べている三人。笑っている陽一の顔が、意外にも自然で。


「父親みたいな顔してますね」


奈緒さんのその言葉に、私は返す言葉を選べなかった。


「奈緒さん、もしよければ…今の気持ちを少し、聞かせてもらえますか」


すると彼女は、報告書の端を軽く撫でるようにしてから、ぽつりと呟いた。


「わたし、どうすればいいんでしょうね」


その言葉に、泣き声は混じっていなかった。

ただ、行き場のない問いが、そこに静かにあった。


「焦らなくて大丈夫ですよ。答えは、すぐに出さなくていいです。

 時間はあります。無理に進まなくていいんですから」


奈緒さんは、少しだけうつむき、そして小さな声で言った。


「……でも、知れてよかったです」


その言葉は、泣いていないのに、不思議と胸に沁みた。



奈緒さんの表情は、最後まで大きくは崩れなかった。

けれどその背中には、確かに何かが、ゆっくりと動き出したように見えた。


私たちにできるのは、あくまで「事実を伝えること」だ。

それが、彼女にとって、前に進むきっかけになればと思う。