依頼が入ったのは、平日の午後だった。
「はい、ダウト探偵事務所です」
「すみません。娘婿の浮気調査をお願いしたい。山梨県の山の中の建設現場なんですが、大丈夫でしょうか?」
「お話を伺ってからになりますが…
一度、事務所に来ていただくことは可能ですか? できれば娘さんも一緒に」
少し間を置いて、相手は「わかりました」と答えた。
私はそっと受話器を置き、手元の予定表に小さく印をつけた。
数日後——。
雑居ビルにある事務所のドアが静かに開き、一人の女性が入ってきた。
落ち着いているように見えたけれど、その奥に揺れがあるのはすぐにわかった。
ここへ来るまでに、何度も心を決め直してきたのだろう。
強さと迷い、その両方が見え隠れしていた。
「今日、お父様は?」
「すみません。急な仕事が入ってしまって…」
お茶を差し出しながら、私は手帳を開く。
「まず、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「増井奈緒です。主人は増井陽一です。」
か細いけれど、まっすぐな声だった。
小さくうなずき、私は続ける。
「お父様からご主人の浮気調査とお聞きしていますが…」
「はい。先日、主人から突然、“好きな人ができたから、離婚してほしい”って言われて…。
もうどうしたらいいかわからなくて。
父が“調べてみよう”と言ってくれて、こちらに。」
「ご主人の浮気は、これが初めてですか?」
「…いえ。父には話していないのですが、実は……3人の女性と浮気していたことがあります」
「3人…ですか」
「そのときは、ただの遊びだったって。女性を車に乗せてた時にオービスに撮られて、写真が自宅に送られるかもって焦ってて…問い詰めたら、白状しました」
「どんな方だったんですか?」
「3人とも現場の事務員さんでした。」
「理由は、聞きましたか?」
「“奈緒はそう思ってないかもしれないけど、みんな俺のことカッコいいって言ってくれるんだ”って。
主人、女性と付き合った経験があまりなくて……舞い上がったんだと思います。
でも、“もうしない”って謝ってくれて……それが3年くらい前です。
それ以降は、本当にいい主人だったんです。優しくて」
だからこそ——
今回の出来事は、余計に彼女を深く傷つけたのだろう。
静かに、奈緒さんは目を伏せた。
「相手に、心当たりはありますか?」
「いえ…。今は山梨に単身赴任中で、どんな生活をしているのか、全然わからなくて。
“現場が忙しいから、あまり連絡してくるな”って言われてて…」
「ご主人、今はどこに住んでいるんですか?」
「若手社員用のアパートが現場近くにあるんですが、みんなと一緒だと疲れが取れないからと少し遠くに自分用にアパートを借りています。
でも、一度家族で遊びに行ったとき、そのアパートには生活感が全然なくて……」
「別の場所に住んでいる可能性がある、ということですね」
「……たぶん。その時は"奈緒たちが遊びにくるから必死で片付けた"…って言ってましたが。」
少し間を置いてから、私は尋ねた。
「奈緒さんは、今回の調査結果をもとに離婚をお考えですか?」
奈緒さんの表情が、一瞬だけこわばった。
「……わかりません。……ただ、知っておかないと、と思って」
その声には、はっきりとした答えがなかった。
けれど、それが今の奈緒さんの気持ちを、何より正直に映しているように思えた。
離婚するかどうかは、まだ決められない。
でも——
知らないままでは、前にも後ろにも進めない。
それが、ここへ来た理由なのだろう。
山の中の現場。尾行の難易度は高いが、不可能ではない。
「人数を分けて交代で張り込みます。
ご主人は朝7時に現場入りとのことでしたね。調整して、やってみます。ただし、調査料金は少し高くなりますがよろしいですか。」
「…お願いします」
小さくうなずいた奈緒さんの声が、わずかに震えていた。
でも——それでも、泣くことはなかった。
そのとき、私は手を止めて、まっすぐに彼女の目を見た。
「大丈夫ですよ。できる限り、丁寧にやりますから」
依頼人が、安心して心を預けられるかどうか。
その一言が、案外、大事な分岐点になる。
「あと、相手の女性のことも…調べて下さい」
「わかりました。」
そしてこの瞬間、奈緒さんの心に、ほんの少しだけ、張りつめていた糸が緩んだ気がした。