「私、大丈夫だから。帰って」

母にそう言ったのは、たしか早朝だった。

一睡もできなかったのに、なぜか目だけは冴えていて、変に頭がクリアだった。


母はリビングでひとり、テレビの音を小さく流しながら座っていた。

おそらく寝ていないのは、私だけじゃなかった。


「どうしてこんな事になったのかしらね」

母は、朝のコーヒーを入れながら言った。

「浮気するような子じゃないと思ってたけど、まぁ、男の人ってそういうとこあるから…」

「でもさ、あんたもちゃんとしてた? 料理とか、気が利くとか。案外、そういうの大事なのよ?」


……そうきたか、と思った。

まるで「浮気される側にも原因がある」理論。

古いドラマで聞いたようなセリフを、朝から実母に言われるとは。


そしてそこから、完全にスイッチが入ったようで、話題はどんどんズレていく。


「そういえばあの頃、うちに来たときもトイレのスリッパ揃えなかったのよね。ああいうの、育ちって出るのよ」

「この鍋、焦げついてるじゃない。ほら、だから煮物は弱火でって言ったじゃない」


私はただ立ったまま、母の独自の“人生訓”を聞いていた。


「ほんとに、大丈夫だから。帰って」

そう言ったとき、声が笑ってるみたいに聞こえたのは、たぶん気のせいじゃない。


本当は、大丈夫なんてこと、まったくなかった。

でも、母といると、自分が間違ってるみたいな気分になるから、余計にしんどかった。


心配なんだか、マウントなんだか、よくわからない母はマイペースにコートを羽織って、「何かあったらすぐ電話してよ」と言い残し、帰っていった。


玄関が静かになったあと、私はソファに倒れ込んで、天井を見ながらぼんやり思った。


「何かあった」って、今がその“何か”の真っ最中なんだけどな。


来たなら子どもの世話をしてくれてもいいじゃない。いやいや…それもいろいろ言われるだろう。

帰ってもらって正解だ。


子どもにご飯を食べさせて、幼稚園バスに乗せる。


部屋の掃除をする気にならず…

ワインを2本。

それもかなりのスピードで空けた。

どうせなら、思考が全部ふっとべばよかったのに。現実の重さは、酒ごときではびくともしなかった。


酔う前に気持ち悪くなって、吐いた。

洗面台にしがみつきながら、ふと鏡に映った自分の顔を見た。

ひどい顔だった。惨めだった。

あぁ…これは、夢じゃないんだな。

そんなふうに思った気がする。


子どもたちのことは、ちゃんとやったと思う。

食事も出したし、送り迎えもした。

泣かせないように、風邪をひかせないように――ただ、それだけを守るように。


でも、それ以外の記憶が、あまりない。

テレビの音、夕方の陽ざし、冷蔵庫のモーター音。

日常の断片だけが、妙にくっきりしていて、肝心なことはぼやけていた。


あのとき、私は彼に何度も問いかけた。


「好きな人って、誰?」

「結婚したいって……じゃあ私と子どもは、どうなるの?」


自分でも、どこか壊れたラジオみたいだと思いながら、同じことを繰り返していた。

でも彼は、黙ったままだった。

もしかしたら、何かを言っていたのかもしれない。

だけど、思い出せない。

思い出したくないのか、思い出す価値がないと思っているのか、それもわからなかった。


そんなときだった。父が来た。

「話は聞いた」

それだけ言うと、ゆっくりとリビングに腰を下ろした。


「まずは事実を調べよう」

「探偵に依頼する」


淡々と話す父の口調に、少しだけ救われた。

感情ではなく、手順を。

怒りではなく、確認を。

そういうことに頭を向けたほうが、まだ生きやすい気がした。


それが、このときの私にできた、精一杯の立て直し方だった。