日曜日の午後。

先週の仕事のミスが尾を引いて、まだ少し自己嫌悪のなかにいる。

私はめずらしくお昼から缶ビールを開けた。

そして自分のために丁寧におつまみを作る。

砂肝のごま油炒めの香りが部屋にふわりと広がる。厚揚げと大根の煮物と自家製味玉も器に盛りつける。


グラスを傾けながら、ぼんやり考えていた。

……“人の話を聴く”を仕事にするって、どうなんだろう?


私、奈緒は今、そんな問いと向き合っている。


そんなことを考えていたら苦い記憶が蘇ってきた。


そう…もう25年以上前の記憶。


離婚調停の帰り道。

裁判所を出て、少し歩いたところで、足が止まった。

「私、何してるんだろう」

急に涙が溢れ、泣きながら歩いた日の記憶。


あの日の私は誰かに自分の気持ちを聴いてもらいたかった。どうしてこんな事になったんだろう…私はなぜ離婚調停をしなきゃいけないのか、それがまだ受け入れられないでいた。



あの夜から全てが始まった。


夫は単身赴任先から一時的に戻ってきて、

久しぶりに家族で外食に出かけた。

食事の途中、私は何気なく言った。

「電子レンジが壊れたみたい。買っていい?」

「買えばいいよ」

彼はそう言って、ビールを飲んだ。

その返事に、どこかホッとした。

まだ、この風景は壊れていない気がして。


けれど、子どもたちが寝静まったリビングで、

彼は唐突に言った。


「好きな人ができたから、離婚してほしい」


言葉が音として耳に届いても、意味として理解できなかった。

目の前の人が、まるで知らない誰かに見えた。


感情が、指先からすうっと抜けていった。

思考が止まったまま、私は台所に立った。


包丁を手に取った。


……その意味は、自分でもわかっていた。


静かに包丁を戻した。

何も言えず、ただ座り込んだ私を横目に、

彼はそのまま寝室へ行き、布団に潜り込んだ。


翌朝。

気配を感じて目を覚ましたときには、もう夫はいなかった。

玄関の扉が閉まる音が、遠くに響いた。


ほどなくして、母がやってきた。


「朝、電話があったの。あなたが自殺しそうだから頼むって」


淡々とした口調の中に、かすかに震えるような声があった。


私は一瞬、言葉の意味がわからなかった。

母に?……あの人、母に電話したの?


私と母は、もともとそんなに仲が良いわけじゃなかった。

必要なことだけ伝えて、それ以外はそっと距離を置いてきた。

頼る相手ではなかった。頼られたことも、たぶんなかった。


そんな母の前で泣くことなんて、できなかった。

涙が出そうで出なくて、感情が行き場をなくして、

私はただ、静かに立ち尽くした。


“自分でなんとかしなきゃ”……

頭の中で、何度もその言葉を繰り返した。


その日から、私は本当の意味で「ひとり」になったのかもしれない。


誰にも見せられない悲しみを、

そっと心の奥にしまい込んだまま……。