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誰かの言葉に、静かに耳をかたむける。
ただ聴く、ただそこにいる。
気持ちがゆるむきっかけになれたら、
それだけでうれしい。
ここに綴るのは、日々のなかで出会った、
やさしい気配のようなストーリーたち。
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「行ってきたよ。夫の実家」

そんなふうに、友達から連絡がきたのは、春の夕暮れだった。
前にあの“かぼちゃ”の一件を聞いていたので、その後どうなったか気になっていた。

「お義母さんね、びっくりするくらい普通だったのよ。『いらっしゃい』って笑って迎えてくれて。
お土産の和菓子、すごく喜んでくれてさ」

「お土産何にするか悩んだでしょ。」

「うん、すごく悩んだ。今回の手土産は、
京都の「亀屋良長」の桜や菜の花を模した、春らしい和菓子にしたの。お義母さん、和菓子が好きだから。」

あのとき残されたままの、あたたかいけれど複雑な感情。それも持って、彼女は再び夫の実家を訪れた。

玄関を開けると、お義母さんが笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい、遠いところありがとうね」
和やかなその声に、友達は少しほっとしたようだった。
手土産の箱を開けると、お義母さんの顔がぱっと明るくなった。

「まあ、綺麗ねぇ。春の花が咲いたみたい」
ひとつずつ、まるで宝石のように丁寧に眺めている姿に、胸がきゅっとなった。

そのまま三人でお茶を飲みながら、取りとめのない話をした。
季節のこと、庭の草花のこと、テレビの話題。
和やかな時間が、静かに流れていく。

でも、あの時のこと――
かぼちゃを残された日の記憶が、どこか胸の奥にひっかかっていた。
今日は何も触れられないまま、終わってしまうのかもしれない。
そんな思いが、ほんの少しだけよぎる。

やがて台所から、やさしい出汁の香りが漂ってきた。
夕飯は、お義母さんが用意してくれている。
湯気とともに運ばれてくる器の音に、彼女はそっと背筋を伸ばして、テーブルに並べられた料理を見渡した。ふと目に入った小鉢に、少し驚いたように目を向ける。

「かぼちゃの煮物?」

彼女の言葉に、お義母さんはふっと目を伏せた。
「ごめんなさい。あのとき、ちゃんと伝えたほうがよかったのよね……
私は昔から、ああいう“ほこほこ”した栗かぼちゃがちょっと苦手で。
でも、あなたが一生懸命作ってくれたのがわかったから、どうしても言えなかったの。
“せっかく作ってくれたのに、嫌なんて言ったら申し訳ない”って思って……」

一生懸命つくった料理を前にしたとき、お義母さんにも“言えなかった気持ち”があったのだ。

「ごめんなさい。お義母さん、あの日のかぼちゃのこと…ちょっと気になってたんです。
手をつけてもらえなかったのがわかってたから、“口に合わなかったのかな”とか、
“何か気に障ることしてしまったのかな”とか……
いろいろ考えちゃって。それがずっと、心のどこかに引っかかっていて……」

「そうよね。私もあなたの様子を見て…ずっと気になっていたの。今日はちゃんとかぼちゃの煮物に手をつけなかったことを謝って、私の好きな日本かぼちゃの煮物を知ってもらいたいと思っていたのよ」

——そうか、ちゃんと見てくれてたんだ。
わだかまりの正体は、ただのすれ違いだった。
やわらかくて、言葉にするのがむずかしい、小さな遠慮。

少し間を置いて、お義母さんは彼女のほうをまっすぐに見て言った。

「これからはね、何があっても、ちゃんと話し合えるようになれたら嬉しいわ。
遠慮しすぎても、かえって誤解が残っちゃうもの」

その言葉に、彼女はそっと頷いた。

「私も…勝手に悪いほうにばかり考えてしまって。でも今日、お義母さんとこうして話せてよかったです。
“これからは、何かあってもちゃんと話し合えるようになりましょう”って言ってもらえて……
すごく嬉しかったです」

彼女の声が、少しだけやわらかくなった気がした。電話の向こうで湯呑みを置くような音がして、ぽつりと笑う声が続く。

「なんかね、思い込みってこわいね。
“きっとこう思ってる”って勝手に決めつけて、
ぐるぐるしてたの、自分だったなって。
ちゃんと話してみたら、ただのすれ違いだったのにね」

私は、うんうんと頷きながら言った。

「気になることほど、話さないとわからないよね。でも、話してみようって思えるタイミングが来るって、大事なことだと思う」

「うん、ほんとに。あの日かぼちゃのことを話せてよかった。すれ違いのままじゃなくて、本当によかったって……今、しみじみ思ってる」

すぐには埋まらないと思っていた距離が、ふとした言葉でやわらいでいく。

「うん、大丈夫。きっと、ふたりはもう大丈夫」

そう、私は心の中でそっとつぶやいた。
春の終わり、静かなあたたかさだけが残った。