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誰かの言葉に、静かに耳をかたむける。
ただ聴く、ただそこにいる。
気持ちがゆるむきっかけになれたら、
それだけでうれしい。
ここに綴るのは、日々のなかで出会った、
やさしい気配のようなストーリーたち。
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15年以上昔の話。
仕事帰り、同僚の彼女と駐車場までの道を並んで歩いていた。
彼女は少し俯きながら、こんなことを言った。
「私、彼女を怒らせちゃったかも」
「彼女って?」
「同じグループの、髪の長い子。
どうして大学まで出て、派遣なの?って、つい聞いちゃって。
今朝からずっと、目を合わせてくれないの」
そういえば、昨日「もったいないって言われました」と言って、サンドイッチを握りしめていた彼女のことを思い出した。
「どうして?」
そう尋ねると、彼女は少し黙って、それからゆっくり話し始めた。
「私ね、結婚してすぐ仕事辞めたの。もう20年も前の話。
その頃は“寿退社”が当たり前みたいな空気で、
出産したら、子どもが小さいうちは母親は家にいるっていう選択肢しかなかった。
子どもが大きくなってから、パートで働き始めたけど、正社員に戻るのは本当に難しかった。
履歴書を出しても、ブランクが長すぎるって言われて…結局、希望してた仕事にはつけなかった。仕事か結婚か…私、仕事が好きだったのよ。」
だから、と彼女は続けた。
「今の人たちは、結婚して出産しても、
仕事を続けられる選択肢が多少なりともあるでしょう?
それなのに正社員を辞めて派遣になったって聞いておもわず“もったいない”って、つい口に出しちゃったの」
もったいないと言ったあと、彼女もすぐに「あ、まずかったかな」と思ったらしい。
けれど、そのひと言はもう戻せなかった。
「その話をね、昨日家で息子にしたの」
彼女は小さく笑ったような顔で言った。
「そしたら、怒られちゃって。
“お母さん、それってお母さんの価値観でしょ?”って。
“誰にだって、それぞれの理由があるんだから、それをもったいないって言うのは違うよ”って」
少し言い返しそうになったら、息子がぽつんとこう言った。
“でも、子どもの頃、お母さんが家にいてくれて、俺は嬉しかったよ”
「それを聞いてね、なんだか泣きそうになっちゃって。私の選んだ道も、きっと間違いじゃなかったんだって。
彼女は何も言わなかったけれど、あの子の選んだ働き方にも、ちゃんと意味があったんだろうなって、ようやく思えるようになって」
彼女はぽつりとつぶやいた。
「もったいないなんて言うんじゃなかった。
ちゃんと、“どうしてその働き方を選んだの?”って、聞けばよかったのよね」
あのとき彼女がつぶやいたその言葉が、
今でもふと、胸に残っている。
そして2025年の今、
働き方も、生き方も、ずいぶんと変わってきたと思う。
選べる道が増えて、両立という考え方も根づいてきた。
15年前の帰り道。駐車場まで歩くほんの数分、私たちが肩を並べていたあの時を思い浮かべる。
問いかけ方ひとつで、誰かの選んだ道を曇らせてしまうことがある。
どんな気持ちでその道を選んだのか――
まずはそれを聞こうとすることが、はじまりだったのかもしれない。
あのすれ違いが、そっと教えてくれた。