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誰かの言葉に、静かに耳をかたむける。
ただ聴く、ただそこにいる。
気持ちがゆるむきっかけになれたら、それだけでうれしい。
ここに綴るのは、日々のなかで出会った、
やさしい気配のようなストーリーたち。
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毎年、春が来るのを楽しみにしている。山白川沿いの桜が満開になるころ、私はお弁当を持ってこの場所にやってくる。
お気に入りのベンチに腰を下ろし、桜を眺めながらゆっくりとお弁当を広げる時間が好きだ。
この日も、私は手作りの卵焼きと焼き鮭を詰めたお弁当を食べながら、目の前に広がる桜並木を眺めていた。
保育園の散歩コースになっているこの場所では、子どもたちが元気に歩く姿が見られる。今日も「こんにちは!」と弾けるような声が飛んできて、私は笑顔で手を振り返した。そんな、いつもと変わらない春の日だった。
ふと、隣のベンチに誰かが座った気配がした。そちらを見ると、品のある高齢の女性がそっと腰を下ろしていた。淡い桜色のスカーフが春風に揺れている。
「綺麗ですね、今年の桜も」
彼女がそう話しかけてきた。柔らかく微笑むその姿に、私は自然と頷いた。
「はい、毎年ここでお花見するんです。お一人ですか?」
何気なくそう尋ねると、彼女は少し目を細めて桜を見上げた。
「ええ。今年は一人で。主人と毎年、別の公園でお花見をしていたんだけどね。もう五年になるわ、彼がいなくなってから…」
風に乗って、彼女の静かな声が届く。私はそっと耳を傾けた。
「夫が元気だったころは、決まって同じ公園に行っていたの。でも、あの場所にはもう行かなくなってしまったのよ。二人で歩いた道を、一人で歩くのは少し寂しすぎてね」
彼女は桜を見つめたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「でも、桜が好きなことには変わりないの。だから、こうして違う場所を探してみたの。この川沿いも素敵ね」
「ご主人との思い出が詰まった場所、きっと特別ですよね」
私がそう言うと、彼女は微笑みながら頷いた。
「ええ。夫はいつもお団子を頬張っては『花より団子だな』なんて言ってたわ。でも、私にとっては、彼の隣で過ごす時間そのものが大切だったの」
彼女の言葉には、長い年月を共に過ごした温かさが滲んでいた。
「今は娘と暮らしているの。でも、そろそろ一人暮らしをしようかと考えているのよ。娘には娘の暮らしがあるもの。私も、自分の人生をもう一度始めないとね」
その言葉には、寂しさの中にも新しい一歩を踏み出そうとする意志が感じられた。
「新しいお家、探してるんですか?」
そう尋ねると、彼女は小さく頷く。
「ええ。この辺りも候補にしてるの。夫との思い出の場所からは少し離れるけれど、桜が綺麗で、落ち着くところがいいなと思って」
春風が優しく吹き抜け、桜の花びらがひらひらと舞い落ちる。彼女の横顔は、少し未来を見つめているように見えた。
「きっと素敵な場所が見つかりますよ。もしここに決めたら、来年も一緒に桜を見られますね」
私がそう言うと、彼女は少し驚いたようにこちらを見て、それからふわりと微笑んだ。
「まぁ、それは楽しみが増えたわね。来年も元気でいなくちゃ」
そう言って立ち上がった彼女は、帰り際に小さく手を振ってくれた。
「お話を聞いてくれてありがとう。なんだか、前に進む勇気が湧いてきたわ」
その後ろ姿を見送りながら、私は桜を見上げた。来年もきっと、この山白川で。彼女と一緒に、また桜を眺められますように――そう心の中でそっと願った。
