リベラル派の逆襲-饗場(あいば)和彦の政治コラム -3ページ目

リベラル派の逆襲-饗場(あいば)和彦の政治コラム

徳島大学・総合科学部の教授です。以前は新聞記者をしていました。専門は政治学、国際安全保障論、ジャーナリズム論など。いまの日本社会に危機感を持っています。現実主義を踏まえたリベラルな視点から、改憲、集団的自衛、報道の自由、学問の自由、戦争責任などを考えます。

「ついつい」コラム
(投稿済みの「ツイ」ッターに「追」加して書いています。仕事柄、政治の悪弊を「ついつい」論難してしまいます)

“裸で桃を盗ろうとする”安倍首相-核発言をめぐり


「李下(りか)に冠(かんむり)を正さず」とは、王様が桃の木の下で冠に触ると桃を盗んだように誤解されるから、そういう軽率な行為をしないようにという戒めです。「裸の王様」は正しいことを忠告する人がおらず、恥をかく王様の話です。核兵器をめぐる最近の安倍さんの言動は、“桃の実を盗ろうとモゾモゾしている裸の王様”のように見えますこの王様、本当にオカシイぞ――私たちの平和で自由な暮らしを安倍首相には託せないと、いよいよ実感します。


■法文上、自衛隊は核兵器を運べる

 85日の参議院の委員会質疑で、法文上は自衛隊が後方支援として核兵器も運べることがわかりました(「重要影響事態法案」「国際平和支援法案」)。安倍首相は「法理上の話ではなく、政策上、全くあり得ないのです。国是としての非核三原則があるのだから」と否定しました。それでも執拗に野党から問われると、「私は総理大臣としてありえないと言ってるんですから、間違いありません。総理大臣として言ってるわけですから」と、鼻白んで答えていました。この「総理大臣だから私が正しい」話法は、安倍さんの得意のフレーズです。民主党の岡田克也代表との論戦でも飛び出しました。ただ、この言い方は総理大臣という権威をかさにきているだけですから、説得力は乏しいのですが。

 

■広島のあいさつで非核三原則を省く

 その委員会の翌日6日、広島の平和式典であいさつをした安倍首相は、非核三原則に触れませんでした。「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」とする非核三原則は、唯一の被爆国、日本のアイデンティティでもあります。これまで広島・長崎の首相あいさつでは毎年必ず明言されてきたのに、なぜ安倍首相は今回、それを言わなかったのか。被爆関係者をはじめ世論の大きな疑問を招き、首相は9日の長崎のあいさつでは非核三原則に触れました。広島で省いた理由を問われ、首相は当然の原則だから言うまでもない、と答えました。確かに「言わずもがな」という場面も一般にはあります。しかし、今回はそうでしょうか。毎回発言してきた継続性と、原爆ということの重大性に鑑みれば、非核三原則を急に省く行為には「言わずもがな」以上の理由が推測されて当然でしょう。


■日本の核保有を考えているから?

ふつう、首相や大臣などの公的なあいさつ文は官僚が周到に配慮して原案をつくりますから、それに則っていれば問題は生じません。今回も官僚の原案には非核三原則は入っていましたが、首相の判断でそれを抜いたわけです。安倍さんはそこで何を考えたのか。理由は二通りありえます。一つ、何かしっかり考えた理由があって。もう一つは、つい軽い気持ちで。なにか確信的な理由があったとすると、それは「日本の安全には核保有が必要」と考える安全保障観でしょう。その是非はさておき、国際社会において核保有は一つのオプションです。日本は原発から出たプルトニウムを貯蔵しているので、その高い技術力からすれば数年で核兵器を開発できると目されています。依然、軍事力がモノを言う国際社会では核という圧倒的な兵器を持つことは一定の合理性があります。したがって安倍さんが確信もって日本の核保有を肯定するのは一つの考え方です。もしそうであるなら、今回の安保法制で自衛隊が核を輸送できるとする立法と整合しますし、今回のあいさつで非核三原則の言及をやめるのも筋が通ります。しかし、世論のごうごうたる反発を買うのは明らかです。安倍さんはそれに対して正面から説得できる、論理と気概を持たねばなりません。


■深く考えず、ついうっかり?

他方、もう一つの理由、つい軽い気持ちで。「戦後レジームからの脱却」という安倍首相の根底にある志向性からすれば、非核三原則も「脱却」したい一つの対象でしょう。その意識が根底にあるから、「また非核三原則かよ。毎度お決まりの形式的な文言だから抜いてもいいだろ」と、軽く考えたのかもしれません。私がここで問題にしたいのは、とりあえず核保有の是非ではありません。安倍さんの状況判断力です前日の国会で自衛隊は核兵器も輸送できるとなって世論の疑念がわいている中、非核三原則を抜いてあいさつをすれば、当然、輪をかけて反発を買うだろうというのは、子供でも分かる推測です。その程度のことも、判断できない人なのでしょうか。あるいは連日の国会審議で疲労困憊だったのかもしれません。ですが、首相だから激務は当然です。「疲れていたので判断間違えて、戦争しちゃいました、ごめんなさい」なんて言い訳、通用しません。疲れや病気で仕事ができないなら第一次安倍政権の時と同じく辞任するべきです。

 
■首相のミスを修正できない周囲

 さらに呆れるのは、そうした首相の単純な判断ミスを周囲が修正できなかったという点です。「総理、今の状況で、この文言を抜いたら大変なことになりますよ」と官僚も閣僚もアドバイスできなかったなら、つまり「王様、あなたは裸です」と誰も言えなかったなら、組織としては致命的な欠陥です。周囲がイエスマンばかりなのか、安倍首相が周囲に相談する気がない、あるいは耳をかさないのか。いずれにしても意思決定者の独断専行がなんらチェックされない組織は早晩大きな失策を犯しがちです。一会社なら倒産で済みますが、政府の大きな失策ははるかに甚大な悪影響を及ぼします。

 
■いずれにしても安倍内閣は信頼できない

 安倍首相は実は、強い確信もって日本の核保有を考えているのかもしれません。しかしこれまでの安保法制をめぐる国会討論でも明らかなように、安倍さんには正面から争点に向き合う姿勢がありません。核保有論も当然、正面から国民に問うはずありません。安倍さんがなし崩し的に、はぐらかしながら核保有論を進めようとするなら、私たちは大きな警戒感を持たねばなりません。また、安倍さんが言葉どおり、核輸送、核保有なんて考えていないとしても、あの状況で軽率にも非核三原則を抜いてしまうという程度の判断力しかない政治家に、とても国政を預けられません。そしてそんな判断ミスを修正できない内閣・政府自体に対しても同様です。もはや安倍さんや政府に対しては不信感を超えて、恐怖感を覚えます。

 

 <裸の安倍さんが取ってはいけない桃の実を取ろうとしているのに、取り巻きは見ているだけ>という滑稽な図は、安倍政権を否定する根拠をわかりやすくイメージさせてくれるのです(誰かこの風刺画、書いてくれませんか)(終)。

 


「ついつい」コラム
(投稿済みの「ツイ」ッターに「追」加して書いています。仕事柄、政治の悪弊を「ついつい」論難してしまいます)


“日本が核や毒ガスで先制攻撃する”――これが安保法制だ


 
「魔法のことば」を唱えればなんでもできる――。安保法制をめぐって参議院での審議が始まりました。参議院の議論は衆議院と違って、ある程度具体性が出てきました。安倍首相はこれまで抽象論、一般論で逃げる手法でしたが、批判が大きいので変えてきたのかもしれません。しかし具体論になれば、それはそれで安保法制の欠陥がわかりやすくなりますから、結局どちらに転んでも市民の批判は避けられません。その具体的な話の一つとして驚愕の内容が見えてきました。新3要件という「魔法のことば」を言えば、自衛隊はなんでも、たとえば核兵器や毒ガスで先制攻撃もできる、というのです。


 727日 の委員会質疑で民主党の大塚耕平氏は衆議院での政府答弁をもとに、具体的な武力行使の例を挙げて質しました。一つ目は、ある国が他の国に先制攻撃をした場合、日本もその先制攻撃を追認する形で、武力行使できるのか、というケース。二つ目は、日本に対して直接の武力攻撃がないのに日本から先に武力行使できるのか、というケース。さらに、日本に対して攻撃する意思すらない国に対して、日本から武力行使できるのかというケース。加えて、そもそも日本に対する攻撃を予測できないときでも日本から攻撃ができるのか、というケース。安倍首相、中谷防衛大臣の答えはいずれも「新3要件に合えば」できる、という趣旨の答えでした。


大塚氏が「日本はいつからこんな国になったのか」と驚愕したように、これは理由はどうであれ、「あの国は危ない」と日本政府が思いさえすれば、「新3要件に該当するから」と言って、日本が自由に先制攻撃できるような状況です。昔から「自国防衛」を掲げれば(それは多くの場合口実ですが)、たいがい武力行使が容認されてきたので、「自国防衛」は政府からすれば「魔法のことば」なのです。今の安倍内閣は同じことを「新3要件」と言い換えているにすぎません。


 そして、85日の民主党の白眞勲氏による質問では、自衛隊が運べる武器・弾薬の中には核兵器や毒ガスも含まれるのか、と聞いたところ、政府は法理上は「含まれる」という答えでした。横畠裕介・内閣法制局長官も「憲法上、核兵器を保有してはならない、ということではない」と答えました。ということは、この安保法制案はつまり、政府が新3要件という「魔法のことば」を唱えれば、自衛隊は核を使った先制攻撃までできるという、そんなとんでもない法案なんです!


――と、こう書いてしまうと、賢明な読者の方は「ちょっと待て。おかしいだろう」と反論されるでしょう。その通りです、おかしいんです。実は、前半の先制攻撃もできうるという議論は「武力攻撃・存立危機事態法」の中の話で、集団的自衛権の行使をめぐる論点です。後半の核や毒ガスの話は「重要影響事態安全確保法」「国際平和支援法」の話で、自衛隊の後方支援活動をめぐる論点です。法律も性質も別次元のものをいっしょくたにして言うのは、確かに不適切なのです。


しかしながら、今回の政府の法案はこれらを始め11本をまとめて法制案として問い、一括してイエスかノーかを国民・国会に問いかけているのです。ごっちゃにして問いかけてくる以上、ごっちゃにした結論に至るのはある意味当然の話です。したがっ て、政府が今回こういう問いかけのしかたをした以上、たとえば国民が「そうか、今回の法案では自衛隊が核を使って先制攻撃もできるのか」と“理解”して、「うーん、それはやり過ぎだ。反対だ」と“判断”しても、政府はそれを受け入れねばなりません。もしそれが嫌なのであれば、法案をばらして、一本一本丁寧に問いかけて議論をすべきです。別のコラム「安保法制は『福袋』ではない――法案をばらして問え」で、今回の法制案は、いろんな大事なものが入っ ている「福袋」みたいなもので、ほしいもの・いらないものが混ざっているのに、一括して買うか、買わないかと問われても答えられない、と指摘しました。こういう、まとめて賛否を尋ねるやり方自体が論外なのです。


なので、あくまで政府がこのまま一括して、国民・国会に問うのであれば、私たちは「魔法の言葉さえ唱えれば自衛隊が核兵器で先制攻撃もできる」ような法制案はノーだ、という結論を突き付けるまでなのです。(終)


 「踏まれても、ついていきます、下駄の雪」――。自民党と連立政権を組む公明党をからかって言われ
る都都逸(どどいつ)です。もともと両党は政治信条や価値観がずいぶん違います。過去には池田大作・創価学会名誉会長や政教分離の問題で厳しい対立がありました。確かに、小選挙区制の中で中小政党が大政党と組むのは生き残り戦略として意味があります。また与党に入れば政策も実現しやすくなります。「とはいえ、どこまでついていくのか、魂まで売り渡すのか」。このジレンマは公明党の良心をつねに悩ませてきた問いでした。そして、安保法制の中身と安倍首相の本性が衆議院で明らかになった今、その苦悩は極限まできているのではないでしょうか


 公明党の「魂」を形作る一つの大きな柱は、非戦・護憲という確たる平和主義
です。しかし、安保法制案は「戦争法案」と喝破されているように、本来の公明党の方向性とは対極に位置づけられます。集団的自衛権の行使は間違いなく武力行使の幅を広げます。後方支援といっても、いま弾が飛んでこなければ前線にまで兵士や武器を運びます。ほとんどの憲法学者が言うように、違憲であるのは明白です。正式な改憲ならまだしも、閣議決定で憲法解釈を180度変えるのは立憲主義の否定です。そして安倍首相の衆議院での答弁は不十分かつ不誠実でした。争点に正面から答えず、詭弁と強弁、はぐらかしに終始し、あげくには感情をあらわにしヤジまでとばします。そもそも11ものそれぞれ重要で多様な法案に、一括して賛成か反対かなど答えられるはずがありません。ましてや強行採決は論外の暴挙でした。

これまで山口那津男代表は、下駄の雪ではないと反論してきました。公明党の役割を下駄に例えれば、鼻緒の役目を負っていると思う。鼻緒が切れれば、下駄は使い物にならない」と、小さいながらも要(かなめ)としての公明党の役割を主張します。確かに、集団的自衛権に歯止めをかけようと相当、努力がありました。しかし、今やその尽力がほとんど意味をなさないとわかってきました。この点をしっかり考えてみましょう、ここが自民党についていけるかどうかの“最後の一線”ですから。

これまで日本が認めてきた個別的自衛権は、「<日本が攻撃を受けたときに>日本が武力を行使できる」というものです。新たに始めようとしている集団的自衛権は「<日本が攻撃を受けていないとき>でも、他国に対して攻撃があれば、日本が武力を行使できる」というものです。自分が殴られてもいないのに、人のケンカに首を突っ込んでいくようなイメージです。公明党はここに新しい3要件で歯止めをかけようとしました。第1要件はわかりやすく言い換えれば、このような内容です。

 

日本と親密な他国に対して武力攻撃があった場合、日本に対しては武力攻撃がなくても、日本が武力行使をできる(=集団的自衛権の行使)。しかしそれは次の二つの条件がそろった場合のみ(=限定容認)。条件①:もし日本が武力行使をしないで放置すれば、日本が武力攻撃を受けたのと同等の、国家存亡の被害が生じる/条件②:その①の危険が明白に推測できる(=条件①②がそろう事態が「存立危機事態」)。

 

要は、日本が他国の戦争に加担しなかったら、日本が滅びかねない惨害に日本が見舞われることが火を見るより明らかな場合、日本が武力攻撃を受けていなくても、日本から先に武力を用いることができる、ということです。この理屈自体は納得できます。なんにせよ、生死の瀬戸際なら武力もやむを得ませんから。問題はそんな事態が実際、あるのかという点です。武力攻撃による国家存亡の危機とは、たとえば太平洋戦争における米艦隊の沖縄上陸、広島・長崎への原爆投下のような事態です。単に日本の国益を害する事態ではありません。いま日本が他国の戦争に首を突っ込まなければ、沖縄戦や原爆のような惨害をこうむる危機など起きえるでしょうか。公明党は実際にはほぼ起きえない事態を条件に組み入れることで、実質的に集団的自衛権を止めようとしたのでした。安倍首相は閣議決定に集団的自衛という言葉を入れることで「名」をとり、公明党はその行使を実質的に止める言葉を入れることで「実」を取ったと評価されました。


 しかし国会審議が始まってみると、安倍首相はてらいなく、集団的自衛権行使の例としてホルムズ海峡の機雷掃海をあげました。日本のタンカーが機雷で止まれば確かに困ります。しかしこれは経済危機であり、どうみても国家存亡の危機ではありません。その点を問われても安倍首相は「総合的に判断する」とはぐらかします。そこには公明党が示した要件に従う姿勢は見えません。これでは歯止めといっても有名無実です。

 

さらに、安倍首相のようなタイプの人間にはそもそも歯止めが効くのか、という疑問があります。この人には、合理的・常識的な思考を重んじないという「知性面」の特性と、自らの信念に固執するという「心性面」の特性があります。立憲主義や民主主義の原則という当たり前の考えを軽視する一方で、自分の主張が批判されるとむきになって反論します。私たち大人が中学生に世間の分別を説いても、その不十分な知性ゆえにわかってもらえないことがあります。加えて中学生であれば自我も確立するから言い分を曲げない強情さもあります。こういう中学生のような人に、公明党がいくら大人の因果を含めても理解されにくいし、そもそも聞く耳を持たないということになります。安倍首相の国会答弁は、野党が何を言っても通じないので“無敵答弁”とも称されます。歯止め云々の問題を超えて、こういう人が宰相でいること自体、日本の存立危機事態とも言われます。


 また、安保法制以前の問題ですが、大きな反対の中、特定秘密保護法が2013年に成立しました。政府がどのように武力行使の判断をするかは、まさに典型的な特定秘密ですから、その内容は公開されません。結局ブラックボックスの中で決められる以上、歯止めが効いたかどうかもわかりません。

 

このように考えれば、公明党が意図した歯止めはほとんど無意味とわかります。であるならば、もはや公明党の良心としては与党にとどまる意味がどこにあるのでしょうか。むしろ、この法制案の放逐こそに大きな意味がありましょう。なるほど山口代表が言いうように、下駄にとって鼻緒は大切です。しかし鼻緒がしっかりしていても下駄の歩む方向は変えられません。下駄の主が暴走しているなら、むしろあえて鼻緒を切って転倒させ、暴走を止めるのも重要な鼻緒の役割です。公明党・学会の良識ある人たちが立ち上がり、いま公明党が連立を離脱すれば、その英断は日本の政治史に深く刻まれるでしょう。(終)


「ついつい」コラム
(投稿済みの「ツイ」ッターに「追」加して書いています。仕事柄、政治の悪弊を「ついつい」論難してしまいます)


安保法制は「福袋」ではない--法案をばらして問え


 正月の風物詩に福袋があります。必ず毎年買う人いませんか。反対に絶対買わないという人も。一度、デパートの福袋売り場を通りかかり、手に取ったことがあります。外から触るとある程度、中身の想像がつきます。そうするとこれは欲しい、これは要らんと分かってきますが、じゃあ買うのかというと、触れば触るほど余計に決められなくなりました。安保法制の議論に、これと似た感覚をおぼえませんか。

 

■知れば知るほどわからないという「逆説」


 安保法制に対して、市民のスタンスは大きく4種類あるようです:①確信もって反対の人々、②確信もって賛成の人々、③関心あるが考えが定まらない人々、④関心ない人々。①と②の人はぶれません。戦争の体験・記憶のある年配者、労働組合、市民運動などに取り組んできた人々は衆議院の審議を経て、いっそう反対の立場を強めています。他方、いわゆる「ネトウヨ」(インターネット上で極右的な志向を示す人々)も①をののしりつつ、「安倍ちゃん支持」の姿勢に揺らぎはありません。残念ながら④の人もいます。消費税アップなどと違い、この安保法制や秘密保護法の問題は明日からすぐ暮らしが変わるわけではありません。難しそうだし日々忙しいからとつい避けてしまうんでしょう。残る③の人たちは、関心があるので衆議院での質疑を聞いたり、専門家の論評を読んだりして、知識を広めたでしょう。しかし、かえって賛否に迷うようになっていませんか。ふつう、ものごとは知れば知るほど、結論を出しやすくなります。しかし安保法制案は知れば知るほど賛否がぼやけてきます。ここにこの法案の根源的な欠陥があります。本コラムでは、この「逆説」を考えてみます。


 安保法制案は11本の法案からできています。まず物理的に量が多いのですが、内容も多岐に分かれ、その多くが大きな意味を持ちます。一内閣で一本仕上げられるかどうか、という法案がほとんどです。いわば、とてつもなく大きな袋に、いろんな高価なものがたくさん入っている福袋のようです。さて買うか、買うまいか。


 福袋の中身を整理してみましょう。今回の安保法案のテーマは、日本の安全のために武力をどのように使うべきか、それに合わせて自衛隊をどう活用するかという問題です。具体的には大きく三つの枠組みがあります。一つはA:自国の防衛のために武力を使うかどうか、もう一つはB:他国の防衛のために武力を使うかどうか、最後はC:国際社会の安定のために武力を使うかどうか、という枠組みです。

 

■自国の防衛に武力を使うか


 まずA:自国の防衛のために武力を使うかどうか、です。これは個別的自衛権の行使と呼ばれます。この点は、従来からイエスとしてほぼ決着がついています。日本国憲法ができた直後は、吉田茂首相の発言をはじめ日本が攻められても武力は使わないという、憲法9条を文字通り受け取った考え方もありました。しかし、冷戦が激化する中、しだいに日本を守って反撃するためには武力もやむなし、そのための最低限の実力として自衛隊は要るだろう、という理解が政府・市民の間で定着してきました。個別的自衛権は憲法上許されると解釈し、専守防衛に限って自衛隊を容認してきました。この方向性は今回の安保法制案でも変わりありません。

 

■他国の防衛に武力を使うか


 次に、B:他国防衛のための武力の是非という枠組みです。これは自国は攻められていないが他国が攻められているので、この他国に加勢して武力を使うかどうか、ということです。こういう武力行使を集団的自衛と呼びます。ここが今回の安保法制で最も大きな争点になっているところです。集団的自衛にはいろいろな理解がありますが、その本質の一つは<自分が攻撃を受けていない>が、武力を行使する点にあります。他方、上記のA:自国防衛、つまり個別的自衛の場合は<自分が攻撃を受けた>ので、武力を行使するわけですから、決定的な違いがあります。個別的自衛のほうが武力の行使について抑制的なのに対し、集団的自衛のほうは武力行使の幅が広がります。これは集団的自衛の負の面です。


しかし、集団的自衛は自国の利益になる正の面もあります。なぜ他国を防衛するかというと、逆に自国が危機の時は加勢してくれるし、そうした武力の加勢があらかじめ見込まれると、変な気を起こす国をけん制できるからです。これを武力による抑止の効果といいます。つまり、他衛によって自国の安全を高められうるので自衛なのです。


この集団的自衛について、これまで日本は矛盾する二つの立場をとってきました。一つは、憲法上許されるのはあくまで個別的自衛までとし、集団的自衛は「否定」する立場。憲法9条の平和主義からすれば、武力行使のハードルが下がる集団的自衛は相容れないためです。他方、政策としては集団的自衛を「肯定」し、日米安保条約によって実質的にかなりの程度まで実行してきました。冷戦下でソ連の脅威がある中、アメリカの軍事力による抑止効果に期待したからです。こうして従来日本は、集団的自衛の負の面を否定し、正の面を肯定するという「いいとこどり」をしてきたわけです。


さて今回の安保法制では、この枠組みが劇的に変わります。つまりこれまで憲法上、否定してきた集団的自衛を肯定するわけです(この点は閣議決定による解釈改憲で行おうとしていますが、本来正当な改憲手続きを取らねばなりません)。政策としての集団的自衛は変わりません。したがって、憲法上も政策上も矛盾なく集団的自衛権を行使できる体制に変わります。この転換をどうみるか、が大きな争点なのです。(続く)



 

■国際社会の安定に武力を使うか


 三つ目の枠組みは、C:国際社会の安定のために武力を使うかという点です。AとBの枠組みは自国の安全という自己利益に直結する発想ですが、Cでは自己利益と合わせて公共の利益が意識されます。つまり安定した国際社会があってこそ自国の安全が確保されるという発想です。具体的には、まず国連の集団的安全保障があります(言葉は似ていますが、集団的自衛と全く別物です)。これは侵略など悪事を働く国に対して国連全体が武力も含めて制裁を加える仕組みです。国際社会全体を敵に回せば勝ち目はありませんし、それがあらかじめわかっていれば悪事をしでかす国が減ります。また国連のPKOは集団的安全保障ではありませんが、武力も含め様々な手段で紛争に関与し、人々の支援にあたります。最近のPKOは虐殺から住民を守るためにも武力を用います。このほか、国連の活動でなくても、テロ活動の防止や大量破壊兵器の拡散防止、海賊の取り締まりなど公的な意味も含む軍事行動に各国が協力することがあります。


日本ではこうした公益的な武力行使について、これまで問題意識自体があまりありませんでした。PKOには1992年から遅ればせながら参加していますが、実績は他国に劣ります。国連の集団的安全保障による武力行使の是非も憲法との関連を含め、ほとんど議論になってきませんでした。


今回の安保法制ではこの点において一定の変化があります。日本のPKO参加にはこれまで制約があったのですが、これを緩和して自衛隊の活動の幅を広げます。また国連や他の国際組織が決議などに基づいて実施する軍事的な活動にも積極的にかかわれるようなります。ただ、国連の集団的安全保障による武力行使の問題は今回も避けて、議論にもなっていません。

 

■争点が違うのだから一括した賛否はありえない


このように安保法制を大きく三つの枠組みに分けると、それぞれ性質が違い、かつ、いずれも重要ということがわかります。なので、関心を持ち、知識を広げ、考察を深めると賛否はそれぞれで分裂し、しかしいずれも重要だから序列もつけにくいという苦悩に陥るのです。たとえばこういう人がいるでしょう。Aの枠組みにおける、個別的自衛強化の考え方は理解できる。しかしBの枠組みでは、集団的自衛の利点もわかるが、憲法9条の平和主義を大切にしたいので反対だ。Cの枠組みでは、PKOなど国際社会の公益のためには武力も必要だろうから賛成と。では、この人は今回の安保法制にどういう態度を示せばいいのか。結局、違う性質の問題を一括して問われたら、イエス・ノーという答えは不可能なのです。これは今回の法制案の根源的な欠陥です。


しかし、おそらく政府の狙いはここにあります。一括して多様な法案を問うことで賛否がばらけて、結果として極端な反対運動には至りにくい最終的には反対論を乗り切って、本命の集団的自衛権の行使を通せると。


そう考えると、私たちが取らねばならないスタンスは明確です。つまり、<政府は安保法制案をばらして一本一本、賛否を問え>という主張です。<そうでないなら今の法制案全体に反対する>という立場です。


今の安保法制反対の世論は、上述した4グループの市民の内、①の人たちを中心に大きなうねりとなっています。しかし、このままで参議院の審議や与党の判断にどこまで影響を与えられるかは、不透明です。ここに③のグループの人たちが合流すれば、反対運動は空前の規模になるでしょう。①の人たちは法案の内容に反対し、③の人たちは法案の問われ方に反対しているのですが、結論は同じです。そうした大同団結にまで至ると、法制案の廃案や内閣総辞職が現実味を帯びてきます


福袋なら悩んだとしても、運試しと割り切って買ってもよいでしょう。要らないものが入っていたら捨てればよいし。しかし日本の平和と安全を運試しで決めるわけにはいきません。一旦できてしまった法律は不要といっても簡単には捨てられません。政府が福袋から法案を一個一個取り出さないなら、わたしたちはそんな福袋を丸ごと買うわけにはいかないのです。(終)

   


「ついつい」コラム
(投稿済みの「ツイ」ッターに「追」加して書いています。仕事柄、政治の悪弊を「ついつい」論難してしまいます)

強行採決はしょうがないか、野党の退席は無責任か

 

 「うわ~、ひどいなあ。でも政治って究極はこうだよね」――。衆議院特別委員会の強行採決を見て、こんな感想をもつ人、多くないですか。眉をひそめつつも、冷めた目で受け入れてしまうというか。確かにあれは醜態でした。世の中に全員一致ということはまれなんですから最後に決断するのは政治、というのもその通りです。しかし今回の安倍・自民党のやり方はその理屈で納得していいでしょうか

 

「決める過程」が大切です。それまでの過程がちゃんとしていると、最後に決める段階で反対の人が出るとしても、最終的には決まった以上、受け入れる、という合意ができます。そのためには過程においてまず、①誠実に冷静に向き合う姿勢が必要です。力ずくの問答無用という態度や、逃げたりごまかしたりする不まじめな態度では、溝が深まります。冷静さを失い感情論に陥れば、ことの本質から遠ざかります。また、②対立点の修正可能性も大事です。対立する意見と謙虚にやり取りする中で、盲点や改善点に気づくことがあります。その結果、主張する案の中身が向上すればそれ自体よいことですし、反対者とも妥協の余地が生じます。そうしていくと、③時間が必要になります。このように誠実に冷静な姿勢で相手に臨み、対立の中から修正可能性を見つけようとして取り組めば当然、時間はかかります。しかしそうした熟議の結果、合意の形成に近づけます。

 

さて安倍・自民党の今回の「決める過程」はどうでしょうか。まず安倍さんに誠実な姿勢はあったか。4月の訪米の際、首相は「法案を夏までに成就させる」とアメリカ議会で明言しました。決めるのは日本の国会、つまり私たち有権者です。その国会が始まってもいないのにアメリカと約束するのは、そもそも私たちに失礼な態度でした。

 

そして、安倍さんが国会で野党に答弁するとき、また記者会見で国民に説明するときの様子で特徴的なのは、争点に正面から向き合わない姿勢です。相撲でたとえるなら、がっぷり四つに組まず、はたいたり、髷(まげ)をつかんだりという感じでしょうか。その典型の一つが自衛隊のリスクの問題です。今回の法制案で自衛隊は新たに集団的自衛に乗り出し、後方支援やPKOも拡大します。リスクが高まるのは当たり前ですが、安倍さんはそれを否定します。がっぷり四つに組むなら、ここでリスクを認めます。そして「殉職者が出ても必要なのだ。それぐらい重要な法案だ」という真っ向勝負の有意義な討論になるはずです。しかし安倍さんは、リスクはないから大丈夫という逃げの議論をするわけです(インターネット放送では「リスクは下がる」とまで言っています)。

 

こういう姿勢は一事が万事です。野党が問う争点に対し、はぐらかしたりごまかしたり、関係ない点を延々と述べる答弁は「安倍話法」とも言われますが、そういうまじめさを欠く姿勢ではかみ合った、意味ある議論になりません。

 

また、「私は正しいですよ、総理大臣ですから」といった感情的な言葉を口にします。追い詰められると、むきになる感じがあります。その極みがヤジです。野党の質問者に「早く質問しろよ」と、戦争被害の話の最中に「おおげさなんだよ」と。しかも首相の立場で。

 

民主党と維新の党から出た対案には一定の内容がありましたが、そうした法案や野党からの提言に耳を傾け、法案修正を考える態度も見えませんでした。

 

そして、審議の時間はまったく少ないまま採決に至りました。1960年以降で6番目に長い116時間30分を費やしたと与党は言いますが、法案は11本もあります。しかもその多くが、本来なら一内閣で一本仕上げられるかどうかという重大な内容です。時間が足りないのは明らかでした。

 

このように「決める過程」を振り返ると、安倍さんには誠実で冷静な姿勢、対立点の修正可能性、時間のいずれの点も不十分だったとわかります。そういう不適切な過程であったなら、今回の強行採決を「政治って究極はこうだよね」と甘受するわけにはいきません

 

この点に関して、翌日の衆議院本会議で野党が採決に欠席したことを批判する声があります。「反対なら出席して堂々と反対票を投じるのが責任ある態度だろう」と。適切な過程を経たうえでの最終決断という採決ならそうです。しかし適切な過程を経ていない状況では、本来採決するのがおかしいのですから、そこの採決に参加すれば、不適切な過程を了承することを意味します。さらにいったん採決に参加した以上は、その結果にも従わねばなりません。つまり「決めるタイミング」「決める中身」の両面で不当なことを了承するという「二重の矛盾」が生じます。衆議院本会議の欠席はこういう矛盾を避ける「緊急避難」(=やむを得ないので異例の手段が許されること)として正当化される行動です。

 

このように、今回の安保法制に関する強行採決は認められるものではありません。ただ、このコラムでの話は、議事の進め方として強行採決がどうなのか、という手続き論です。法案の内容自体を問う実質論は別問題です。この点は他のコラムをご参照ください。(終)


「ついつい」コラム
(投稿済みの「ツイ」ッターに「追」加して書いています。仕事柄、政治の悪弊を「ついつい」論難してしまいます)


安保法制、核心つかめば難しくない-集団的自衛権を中心に(改訂版)


「国会で連日議論しているが、よくわからない」――。安倍内閣が進めようとしている安保法制案。合計11本もの法案があり、内容も複雑に入り組んでいる。多くの人は何か重要で怪しい気もするが、よくわからないというイメージでないでしょうか。ここでは、集団的自衛権を中心にこの安保法制案の是非をわかりやすく説いていきます。

 

  自衛には二つあります。自国が攻撃をうけた場合、自国を守るために反撃することを個別的自衛といいます。自国が攻撃をうけていないが、親しい他国が攻撃をうけた場合、その他国を守るため反撃に加勢することを集団的自衛といいます。なので集団的自衛は「自衛でなく他衛」だとも言われます(ただ、抑止効果で自衛になる面もあります)。

 

  この集団的自衛はこれまで日本は憲法上「できない」とされてきました。安倍首相はこれが「できる」ように憲法を変え、今回の安保法制案によって立法化しようとしています。この試みは良いのか、悪いのか。いろいろ難しい論点が多くあるように見えますが、核心だけとらえれば難しくありません。この問題の核心を理解するには、大きく二つの枠組みに分けるとよいです。「法律論」と「政策論」です(「人物論」という観点、つまり安倍さん自身はどういう人か、という問題もあるのですが別稿に譲ります)。

 

   <「法律論」としての面>

まず「法律論」とは主に憲法学の問題です。中でも重要なのが立憲主義の話です。多くの市民は憲法の3大原則をよく知っています。平和主義、基本的人権、国民主権です。しかし憲法とはそもそも何か、なぜあるのかと問われると返答に窮します。憲法は法律の親玉、法律の頂点といったイメージを持っていませんか。それはちょっと違うのです。では憲法とは?

 

複数の人間がいれば必ず利害の対立が生じます。それは時に殺し合いにもなります。社会で暮らしていくうえで殺し合いが起きては困るので、利害対立を調整する仕組みがいります。リンゴの実一つを取り合って殺し合っているAとBがいるとしましょう。そこに村の長老Cが止めようと来て、独身のAは三分の一、家族のいるBは三分の二持って行けと提案します。しかし一個全部を得たいABは不満ですから殺し合いをやめません。ここでどうすれば殺し合いは止まるか。ABが分割案を受け入れれば止まります。つまり、嫌がるABに無理やり「わかりました」と言わせる強制力がいるわけです。例えば長老は偉い人だから、あるいは長老は強い武器を持っているから逆らえないという大きな力です。これを権力と言います。だから利害を調整し対立を収めるには、①価値の配分(リンゴを分ける)と、②権力(長老に逆らえない)という要素が必要なのです。こういう社会における利害調整の仕組みが政治なのです。ここでは長老Cが村の政治を行っているわけです。

 

このように政治をするうえで権力は必要ですが、国家としての政治において、国家権力は圧倒的な強制力を持ちます。それを行使するのが神様なら心配いりません。しかし実際は人間です。人間である以上、無能な人や邪悪な人がいます。そんな人が国家権力を振り回したら、私たち市民はひどい目にあいます。国家権力が濫用された最悪のケースがナチスドイツのホロコーストです。だから私たち市民は国家権力が暴走しない仕組みを持たねばなりません。実はその一つが憲法なのです。つまり憲法は政府が権力を振り回して勝手なことをしないよう、政府に縛りをかけているわけで、この仕組みを立憲主義といいます。具体的な縛りとしては、たとえば政府は戦争をするな、特定の宗教に肩入れするな、人権を保障せよなどがあります。立憲主義は、いわば国家権力という猛獣が暴れまわらないように憲法という「檻」に入れておくわけです。これは現代民主主義の基本中の基本の原則です。

 

ところが安倍首相は昨年(2014年)7月、これまで憲法によって「できない」と縛られていた集団的自衛権を、閣議決定で「できる」と変えてしまった縛られるべき政府が自らその縛りを勝手にほどくのは、猛獣が檻を破るのと等しい暴挙です。立憲主義がこのように無視されるのなら、国家権力の濫用、誤用によって私たち市民がどんなひどい目にあうかわかりません。なので、今回の安保法制案は、集団的自衛権の中身の是非以前の問題として、立憲主義を覆す手法による憲法の変更は論外として否定されるのです。集団的自衛権を行使したければ、閣議決定による解釈改憲でなく、きちんと手順を踏んだ正当な憲法改正を行えばよいのです。
(続く)

  <「政策論」としての面>

二つ目の判断の枠組みは「政策論」です。ここでは集団的自衛権は憲法上どうかという点はさておき、その内容に踏み込んで考えます。つまり集団的自衛権の行使という政策は日本の安全のために良いのかという問題です。安倍首相は近年、国際情勢が変わり日本の安全が危うくなっていると語ります。確かに多くの市民は漠然と不安を感じているでしょう(そこには誤解と誘導もあるのですが…)。そこで安倍首相は日本の平和と安全のために集団的自衛権の行使を説きます。日本の平和と安全という「目的」に異論はありません。しかしそのための「手段」として集団的自衛権行使は妥当なのでしょうか

 

集団的自衛権が行使できると、他国の戦争に参加できます。これまで日本が持てなかった軍事的なオプションが増えることになります。国際社会では確かに武力は一つの手段です。武力による抑止も一定の意味があります。しかし弊害があります。武力を使おうとすれば当然、相手側は負けまいと反発し軍備強化に走ります。いたちごっこで軍拡競争に陥ります。こうした悪循環は緊張を高めるし予算もかかるし、結局双方に損なのです。これを専門的には「安全保障のジレンマ」と言います。

 

平和と安全のための手段は武力以外に多くあります。まず必要なのは「外交による平和」という手段です。そもそも私たちが不安を感じるのは、今日本と、中国、北朝鮮、韓国など近隣国との関係が悪いからです。原因は相手側にもありますが、双方の努力でまず友好的な外交関係を回復すべきです。しかし安倍さんは「対話の扉はいつもオープンだ」と言うだけで、自分から積極的に声をかけていく気はない。むしろ靖国参拝や歴史認識にこだわり外交を悪くしています。

 

また「法による平和」という手段もあります。昔の世界は「力(とくに軍事力)がすべて」でしたが、しだいに力でなく法が支配する国際社会へと進化してきました(まだ道半ばではありますが)。国家の間では必ずもめごとが生じます。昔はもめごとを解決する手段の一つとして、ふつうに戦争が認められていたのですが、今はもめごとを武力で解決してはならないという国際法(武力不行使原則)が確立しています。また条約や様々な国際機構がつくられ、国際社会の秩序と利便のため国家はかなりルールに縛られるのが現状です。国際法は必ずしも遵守されないとはいえ、こうした法の支配が強まれば国際関係は平和になります。日本は国際司法裁判所の活用をはじめ、もっとこの点に注力して良いのですが、そもそも自国の憲法をないがしろにしていては、諸外国に国際法を守れと言っても失笑を買います。

 

続いて「道義による平和」。国際社会は損得勘定で動くのが本質ですが、利害を超えた道義の力も存在します。困っている他国に手を差し伸べる国、平和や人道という理念を高く掲げる国、どの国とも友好的・中立的に外交をする国は恩義や徳望や信頼感を集めます。この国は好きだ、大丈夫だ、というある種のブランド力です。そういう国は特定の国から大きな恨みをかいにくくなります。日本はすでに唯一の被爆国、憲法9条、戦後の奇跡的経済発展、温和で勤勉な国民性などから一目も二目も置かれる存在です。しかし集団的自衛権の行使は積極的な武力行使を意味しますから、日本のブランドが壊れ、日本の安全にとって有効なこの道義の力を致命的に弱めます。

 

さらに「経済による平和」。交流や貿易などで経済活動が相互に深まると、持ちつ持たれつの関係だから相手のダメージは即こちらのダメージにつながります。なので、いくら敵対心をもっても結局自分の損になるから相手への攻撃は控えるようになります。こうした経済的相互依存関係を深化させることで戦争などが起きにくくなります。日本はとくに中国に対する関係で、この手段にもっと力を入れるべきなのです。日中の経済関係が相互に深まれば、お互いに活力と利益が増大します。そうなれば「戦争など引き合わない(ペイしない)」と思い、関係は安定します。しかし安倍さんの対中観は経済的実利より政治的プライドにあるようです。

 

「デモクラティック・ピース論」という考え方があります。これは「民主主義国同士は戦争をしない」という説です。確かに今や日米欧の間で戦争など起きるとはだれも思いません。価値観や原則を共有するので相手を理解しやすく、また戦争を嫌う民意が政府に反映しやすいなどの理由が言われます。ただ、逆に「民主主義国と非民主主義国との間では戦争が起きやすい」とも言われます。アメリカのイラク、アフガニスタン戦争を見ればうなずけます。武力による民主化の強制は論外ですが、長い目で見れば、中国や北朝鮮の民主化が日本との関係やアジアの安定につながるのは明らかでしょう。この「民主主義による平和」という手段は、即効性はないですが忘れてはいけない視点です。

 

政府に限らず、市民レベルでも国家関係を平和にできます。「市民交流による平和」です。文化、スポーツ、学術、芸術などで諸外国と市民交流すると、個人間で親密な関係が生まれます。国全体や政府としてのイメージは悪くても、どこの国でも市井の人、一人ひとりをみれば大概、善良な人が多いものです。なので、市民交流が進めば、当事者間で確実に好感情が生じます。日本人の大学生が「中国に留学する前は周りの人に心配されたが、行ってみたらみんな親切でびっくりした」とよく話しています。逆もそうです。政府は民意の影響を受けますから、市民交流の活発化は結局、政府間関係の改善につながります。しかし現状は政府間の対立を受けて市民交流もさほど活発ではありません。

 

なお国連は、外交と法、武力を組み合わせた「集団的安全保障」の仕組みで世界の平和を目指します=「国連による平和」。集団的安全保障は二つの約束でできています:①各国はもめごとを武力で解決しないという約束(武力不行使原則)、②それを破って武力を使った国には他のすべての国が束になって袋叩きにするという約束です。袋叩きにあいたくないから戦争は自制するという仕組みです。これは、字は似ていますが集団的自衛とは全く違います。集団的安全保障は町内会が一致団結して犯罪の撲滅に取り組むイメージですが、集団的自衛は町内会の派閥抗争で片方に加担して殴り込みをかけるイメージです。世界の平和のためには本来は国連による集団的安全保障のほうが望ましいのですが、安倍さんは集団的自衛を重視し、国連という手段は軽視しています。

 

今、日本人の間で「中国や北朝鮮、韓国は不愉快だし、怖い」→「なめられないように日本も対抗すべきだ」→「そのためには集団的自衛という新しい武力も必要だ」という感覚が広がってないでしょうか。挑発的な相手を睨み返したいのは気持ちとしてはわかります。しかし、短絡的な感情で動くのは利口ではありません集団的自衛という武力の対抗策を重視してもそれ自体、逆効果の面があるし、他にも平和と安全に資する手段は多くあるのに、集団的自衛のみにこだわる政策は不適切です。安倍内閣の集団的自衛の政策は、それのみに偏重している点で決定的に不合理なのです。

 

 <きわめて不適切な安倍内閣の集団的自衛

このように「法律論」と「政策論」に分け、今の集団的自衛権の問題を整理すれば、核心部分がクリアになります。つまり、法律論のレベルで見れば、憲法の立憲主義を破る手法自体が論外なので、そもそもここでアウトになります。政策論のレベルで考えるとしても、日本の安全という「目的」のためにとる、集団的自衛権の行使という「手段」はむしろ弊害の方が大きく、また他に有効な「手段」が多くあるのにそれらを軽視しているので、不合理な政策と言えます。結論として今安倍内閣が進めようとしている集団的自衛権の行使はきわめて不適切ということができます。

 

ただ、正当な憲法改正を経たうえでの集団的自衛権の行使は別の議論になります。一般論として武力による抑止効果はありえますし、集団的自衛権の行使や日本の軍事力の強化が合理的な政策になりうる状況、判断もありえます。なので、私は集団的自衛権の行使を最初から一般論として全否定する考え方には必ずしも立ちません。しかし安倍政権が今進めようとしている集団的自衛権行使の方針は個別論として否定されねばならないのです。(終)



臨時コラム
「安倍さんにわかりやすく反論します!平和安全法制はオカシーデショ?」

*安倍首相が出演しインターネットで配信された番組「安倍さんがわかりやすくお答えします!平和安全法制のナゼ?ナニ?ドウシテ?」について、疑問と反論を示します。


【第4夜】(2015710日)の内容について



■安倍さんの説明その1:

 「憲法には自衛権の明文の規定はありません。昭和34年に最高裁の砂川判決がありました。憲法9条において自衛権について判断を下しているのはこの判決のみです。そこで自衛権はありますよと示された。大法廷で15人の裁判官全員が合意し、その判決の中で、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置を取りうるのは国家固有の権能の行使として当然、と判断しました。当時、集団的自衛権の概念はなかったという批判がありますが、これは間違っています。この判決の中に国連憲章はすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有していることを承認していると言及しているので、当然裁判官の頭に集団的自衛の概念があったのは間違いありません。今憲法違反だという人がいますが、国連憲章の中でもすべての国が集団的自衛権も権利として持っているとされ、日本も加盟しているんですから」

 

←疑問・反論:

 今回の安倍さんの話は、安保法制案が憲法に違反しているか、どうか、というテーマです。大変重要な論点です。コラム「安保法制、核心つかめば難しくない-集団的自衛権を中心に(上)(下)」で、この安保法制は「法律論」と「政策論」で分けるとわかりやすいと書きましたが、法律論とは主に憲法の話です。憲法の点から考えようと言っても、そもそも憲法自体を知らないと考えようがありません。そのもっとも出発点となるポイントが「そもそも憲法とは何か」という問題です。なので、安倍さんの言っている話に入る前に、ここから確認しておきましょう。以下は再掲載ですので、「もう読んだ」という方は飛ばしてください。


まず「法律論」とは主に憲法学の問題です。中でも重要なのが立憲主義の話です。多くの市民は憲法の3大原則をよく知っています。平和主義、基本的人権、国民主権です。しかし憲法とはそもそも何か、なぜあるのかと問われると返答に窮します。憲法は法律の親玉、法律の頂点といったイメージを持っていませんか。それはちょっと違うのです。では憲法とは?


複数の人間がいれば必ず利害の対立が生じます。それは時に殺し合いにもなります。社会で暮らしていくうえで殺し合いが起きては困るので、利害対立を調整する仕組みが要ります。リンゴの実一つを取り合って殺し合っているAとBがいるとしましょう。そこに村の長老Cが止めようと来て、独身のAは三分の一、家族のいるBは三分の二持って行けと提案します。しかし一個全部を得たいABは不満ですから殺し合いをやめません。ここでどうすれば殺し合いは止まるか。ABが分割案を受け入れれば止まります。つまり、嫌がるABに無理やり「わかりました」と言わせる強制力がいるわけです。例えば長老は偉い人だから、あるいは長老は猛獣を飼っているから逆らえないという大きな力です。これを権力と言います。だから利害を調整し対立を収めるには、①価値の配分(リンゴを分ける)と、②権力(長老に逆らえない)という要素が必要なのです。こういう社会における利害調整の仕組みが政治なのです。ここでは長老Cが村の政治を行っているわけです。


このように政治をするうえで権力は必要ですが、国家における政治において、国家権力は圧倒的な強制力を持ちます。それを行使するのが神様なら心配いりません。しかし実際は人間です。人間である以上、無能な人や邪悪な人がいます。そんな人が国家権力を振り回したら、私たち市民はひどい目にあいます。国家権力が濫用された最悪のケースがナチスドイツのホロコーストです。だから私たち市民は国家権力が暴走しない仕組みを持たねばなりません。実はその一つが憲法なのです。つまり憲法は政府が権力を振り回して勝手なことをしないよう、政府に縛りをかけているわけで、この仕組みを立憲主義といいます。いわば国家権力という猛獣が暴れまわらないように憲法という「檻」に入れておくわけです。ところが安倍首相は昨年7月、これまで憲法によって「できない」と縛られていた集団的自衛権を、閣議決定で「できる」と変えてしまった。縛られるべき政府が自らその縛りを勝手にほどくのは、猛獣が檻を破るのと等しい暴挙です。立憲主義がこのように無視されるのなら、国家権力の濫用、誤用によって私たち市民がどんなひどい目にあうかわかりません。なので、集団的自衛権の中身の是非以前の問題として、立憲主義を覆す手法による憲法の変更は論外として否定されるのです。集団的自衛権を行使したければ、閣議決定による解釈改憲でなく、きちんと手順を踏んだ正当な憲法改正を行えばよいのです。

 

 安倍さんは砂川事件判決を出して集団的自衛権は憲法に沿っていると主張します。当時、事件として具体的に問われたのは個別的自衛の是非でした。そして、確かに判決では、日本は自衛権を持っており、そのための必要な措置がとれる、というのですが、さて、そこから今回の法制で盛り込もうとしている、集団的自衛もできるんだという理解につなげて良いのかどうか。こんなたとえ話があります。<雪男が東京駅に現れて、駅員にトイレを使いたいと頼んだ。しかし駅員が拒んだので裁判になった。判決では、雪男であっても動物が排泄するのは当然であって、そのために必要な措置がとれるとされたので、雪男はトイレを使うことができた>。この事件では雪「男」だから当然、男子トイレが想定されていましたが、では、その後、この判決をもとに、雪男は女子トイレも使えると自動的に導いていいでしょうか。場合によっては女子トイレを使えるかもしれないが、なんにせよ、別途議論が必要で、少なくとも自動的に女子トイレOKとはなりにくい。男子トイレと女子トイレは排泄する場所としては同じ性質ですが、男子と女子では根本的に違いがあり明確に区別されているように、個別的自衛権と集団的自衛権についても共通性はあるものの、明確な相違があります。この雪男の話と同じように、砂川判決をもとに自動的に集団的自衛権の行使までにはもっていけないでしょう。(続く)


 

■安倍さんの説明その2:

 「砂川判決の中では集団的自衛権、個別的自衛権という書き方はしていないんです。そこで私たちは政府としての見解を1972年に示しました。その時は必要な自衛の措置は、当時の国際環境を鑑みて、個別的自衛のみで集団的自衛は含まれないと判断しました。必要な措置を考える責任のあるのは私たち国会であり内閣です。あれから40年、ずいぶん環境が変わりました。当時は北朝鮮にミサイルはなかったが今や数百発の弾道ミサイル持っている。同時にミサイルを撃ち落とす技術もできた。アメリカの衛星やイージス艦とリンクしてリアルタイムで日米協力できる。兵器もずいぶん変わった。昭和47年の時も解釈で個別的自衛権は合憲、自衛隊は使えますよと判断しました。当時は閣議決定はしていなかった。40年たち状況が変わったので、今はちゃんと閣議決定で判断している。そういう意味で立憲主義に沿ったものだと思う」。

 

←疑問・反論:

 ここで安倍さんが言いたいことは、政府は1972年当時は個別的自衛権だけと考えていたが、その後40年たち国際情勢が大きく変わったので、必要な自衛の措置も変わり、集団的自衛権を含めて対応する、ということです。確かにものごとは環境が変われば対応も変化します。しかしここで問題になっているのは憲法との関係です。時代や環境が変われば、確かに憲法も変わりえます。ではその憲法を変えるのは誰でしょうか、どのようにしたら変えられるのでしょうか。この問いに正確に答えるには、憲法とは何か、がわかっていないといけません(この点は上述しました)。つまり、憲法は市民が政府を縛るルールだとわかっていると、それを変える主体は誰かというと市民になります。どのようにして変えられるかというと、市民の意思を反映するようにして変えられる、となります。これを裏返すと、政府が主体になって政府の意思を反映するように憲法を変えられないということです。ところが今回の法制案にある集団的自衛の行使は、憲法によってできないとこれまで政府自身が認めてきたものを、政府の一存で正反対にできると変えるわけです。つまり政府が憲法を変えているのと同じなのです。日本が集団的自衛権を行使すべきなら、市民が市民の意思で憲法を変えて、やるべきなのです。なので、仮に国際情勢の変化によって今は集団的自衛権が必要ということ自体は正しいとしても、今回のやり方は、方法として許されません。これを通すと立憲主義という現代民主主義の基本中の基本が崩壊するので、まったく言語道断なのです。安倍さんは「1972年と違い今回は閣議決定をしているから立憲主義に沿う」と言っていますが、まったく説明になっていません。そんなトンチンカンなことで反論になると思っていることから、いかに安倍さんが憲法や立憲主義の大切さについてわかっていないか、余計にはっきりします(ちなみに、安倍さんは成蹊大学法学部出身ですが、国会で「アシベノブヨシさんは知っているか」と聞かれて「知らない」と答えました。芦部信喜先生は法学部生ならほぼ全員知っているはずの憲法学の最も著名な泰斗です。王選手を知らない野球少年がプロになる、と言っているようなものです。そんな程度の人が合憲だ、違憲だ、改憲するだの説明しても、お話になりません)。(続く)