リベラル派の逆襲-饗場(あいば)和彦の政治コラム -2ページ目

リベラル派の逆襲-饗場(あいば)和彦の政治コラム

徳島大学・総合科学部の教授です。以前は新聞記者をしていました。専門は政治学、国際安全保障論、ジャーナリズム論など。いまの日本社会に危機感を持っています。現実主義を踏まえたリベラルな視点から、改憲、集団的自衛、報道の自由、学問の自由、戦争責任などを考えます。


「ついつい」コラム
(投稿済みの「ツイ」ッターに「追」加して書いています。仕事柄、政治の悪弊を「ついつい」論難してしまいます)


掃除をサボる子は裸の刑だ?-参議院の安保法制採決

 

 参議院でも強行採決され、安保法制が可決、成立しました。「暴挙だ」「やむをえない」「関係ないし」と、いろいろ見方はありましょうが、私はある種の絶望感を強く持ちました。「こんなこともわからないのか」「ここまで政治家は劣化したのか」と。本コラムでは細かい手続き違反の問題でなく、参議院の採決で見えた日本政治の本質的危機に注目します。

 

■多数決なら何でも決められるか

 本会議では野党が解任決議案、不信任決議案、問責決議案などを次々出し、安保法制の成立を阻もうとしました。しかし、それに対して与党は討論の時間を制限する動議を出し、与党の賛成多数で可決されました。その結果、各党の討論の持ち時間は10分から15となりました。実際の審議では野党の討論者がたびたび時間をオーバーしたため、議長から注意を受け、議場では「発言やめろ」「ルールを守れ」という大きなヤジ、怒号が飛び交いました。


 この状況、どう考えますか。確かに意味なく時間を費やすのは良くありません。だから時間を制限することもわかります。そしてその制限も本会議で諮って多数決で決めました。みんなで決めたことを守らない野党議員はルール違反です。だから発言をやめさせるべきだ――こう考えますかね?


 では、次の話はどうでしょう。ある小学校のクラス会議で、まじめなAさんから「掃除をサボる子らがいるのは、おかしいと思います」という意見が出ました。そうだ、そうだとなって、頭のいいB君が「何か罰があったら、それがいやだからサボらないようになるよ」と提案しました。いつもふざけているC君が「じゃあ、サボった人は裸になるとかは」と言うと、教室は大笑いに。司会役のDさんが「賛成の人は手を挙げて」と聞くと多くの手が挙がったので、「掃除をサボったら裸になる」というクラス規則ができました。その後のある日、お母さんが交通事故にあったと聞いたE君が掃除をしないで帰ろうとしたので、みんなでE君を裸にしました。クラスで決めたルールだから、守らないといけないと。


 この話が変だというのは誰もがわかるはずです。いくらみんなで決めたこととはいえ、それはやりすぎだ、と。多数決は大切ですが、何でもできるわけではありません。どんな場合でも侵されない至上の価値・原理とかち合う場合、多数決原理は当然に後退します。人前で裸になるのは個人の尊厳を傷つけ、人権を侵害します。人権保障の概念は、今や普遍的な至上の価値として公認されているので、いくら多数決であっても、人に裸を強要できないのです。

 

■国会議員の“自殺”と“粗悪品”

 では参議院での討論規制はどうでしょうか。日本は民主主義の国です。民主主義社会においては、まず個々の市民が自由に意見を言えねばなりません。その民意は議員が政治に反映しますから、議員も自由に意見が言えねばなりません。その代議制の最上位に国会があります。だから国会は「国権の最高機関」であり、「言論の府」と呼ばれます。なので、その国会において「言論の自由」という原則は、国会の魂そのものと言ってよいでしょう。この点から考えると、討論規制に関して、二つの深刻な問題が見えてきます。


 一つは、国会議員自らが“自殺行為”に及んでいるという点。民主主義社会において「言論の自由」は不可欠の大前提ですが、それがその最も権威ある場所で、しかもその当事者が自ら放棄するような行為は、民主的に選ばれた議員がその民主主義社会を自ら葬ろうとしている意味になるからです。


 二つ目は、国会議員に“粗悪品”が増えているという点です。多くの与党議員がヤジや怒号で叫んだのは、「討論時間を規制したルールは多数決で決まったのだから、時間超過の野党議員は話をやめろ」という考え方です。これは掃除の話に当てはめれば、「掃除をサボったら裸になるというルールは多数決で決まったのだから、サボった子は服を脱げ」という思考と同じです。人権が多数決で否定されないように、言論の自由も多数決で否定されないのは自明の理ですが、これがわかっていないらしい与党議員。時間を超していても懸命に安保法制の非を訴え続ける野党議員に対して、靴を打ち鳴らし大声で「やめろ」とわめくさまは、よってたかってE君の服を脱がそうとしている場面と、本質において同じではないでしょうか。国会議員は小学生並みか、と大きな失望を感じました。

 

■社会を根底から蝕む政治の劣化

振り返ってみれば、これら二つの点――民主主義の後退と、議員の質の低下――は安倍政権の下ですでに明らかになっている傾向です。民主主義が後退しているから質の悪い議員が出てくるのか、質の悪い議員が多いから民主主義が後退するのか。鶏と卵の関係に似て、答えは難しいですが、いずれにしてもはっきりしているのは、これは独裁国家を求めるのではない限り、絶対的に悪だということです。


 もちろん、質の良い国会議員も少なくありません。単に頭が切れ、弁が立つだけでなく、良心と情熱のある議員です。委員会質疑や本会議の討論で見ごたえのある場面もありました。


 民主党の福山哲郎氏も悲壮な表情で時間を越えて演説しましたが、ヤジに耐えかね「武士の情けもないのか」と言い返しました。気持ちはわかりますが、本質はそこではありませんでした。E君を寄ってたかって裸にしょうと群がっている悪ガキらに「武士の情けで助けてやってくれ」と言うのが、的外れであるのと同じです。むしろ、あの場面で福山氏は、「本当に情けない。君らは小学生か」と言うべきだったでしょう。


 参議院の採決の顛末を通して見えたのは、国会議員自らが民主主義の“自殺”を図り、国会に“粗悪品”の政治家がたくさん混じっている現状でした。もちろん野党にも質の悪い政治家はいますが、自民党議員の劣化傾向はここ10年ぐらい著しいと感じます。一昔前は良質な保守政治家が多くいたのですが、今は村上誠一郎氏ぐらいでしょうか(潜在的にはいるのでしょうが、声は聞こえてきません)。こういう劣化している日本政治の延長線上に、安保法制が出てくるわけです。単に11本の法律の問題にとどまらず、ことはもっと根底のところで日本社会を蝕んでいると実感します。(終)

 


「ついつい」コラム
(投稿済みの「ツイ」ッターに「追」加して書いています。仕事柄、政治の悪弊を「ついつい」論難してしまいます)




A君への手紙-やさしい人にこそ知ってほしい、安保法制の非

 

 前略 A君、お元気ですか。障害を持つ人たちを支えながらのリサイクル業、暑い今夏はとくに大変だったでしょう。以前、私の大学まで不用品を取りに来てもらったとき、ハンデのある人にやさしく接し、大汗かいて運び出すA君の姿は、大変まぶしく映りました。

 
 さて、19日、国会で安保法制が可決、成立しました。そのときA君はフェイスブックでこう書いていました。
安保法案は戦争をする為でなく、ちょっかい出してくる中国に対する抑止効果であり、日本の平和を守る為でしょう。これで良かったと思います。戦争法案と勝手に誤解している人が多すぎて…」


 確かにいろいろな人が安保法制に賛成しています。でも政治家や芸能人、ネトウヨの人らはともかく、A君がそう言うのはショックを受けました。安保法制とは何なのか、安倍さんらの勢力がつくろうとする社会とは何なのか。富や権力、地位、名誉のある人たちでなく、名もなきやさしき人々にこそ、わかってほしいのであえて手紙を書くことにしました。


 この安保法案、A君の言うように確かに戦争を「目的」にしているのではありません。あくまで平和が「目的」です。社民党の福島みずほ議員は「これは『戦争法案』だ」と言い、デモ行進でも「戦争反対」というプラカードをよく見ます。しかし安倍さんは何度も「日本の平和と安全を守るため」と言っているのですから、誤解して反対している感じもします。そして確かに中国。この国の振る舞いには困ります。こうみるとA君の見方はもっとものように聞こえますが、しかし…。

 

■安保法制は平和という「目的」のための「手段」として有効か

まず、戦争・平和・目的・手段の関係から整理しましょう。「俺、戦争がしたいんだ」と戦争自体を「目的」にする政府、政治家はいません。「目的」は自国の平和や安全、利益です。そのための「手段」として戦争、つまり武力の行使があるわけです。安倍さんも「目的」は日本の平和と安全だといいます。それには誰も異論ありません。問題はその「手段」です。つまり、その「手段」は「目的」を達するのに有効か、という点です。


 平和と安全という「目的」のための一つの「手段」として、確かに武力があります。軍事力は今の国際社会では必要悪です。今回の安保法制は、新たに集団的自衛権の行使を始め、後方支援の活動も広げます。つまり自衛隊という武力の「手段」を強化して、日本の平和と安全という「目的」を達成しようという考え方です。


 今回の安保法制が良いか悪いか、賛成か反対かを判断するポイントの一つはこの点です。つまり武力の強化で日本の平和と安全を守るという考え方は、合理的なのかどうか。二つの観点が重要です。

 
 一つは武力自体の逆効果です。確かに武力は一定程度、平和と安全にとって必要、有効です。そして、武力を背景に、相手に変な行動を取らせない「抑止」の効果もあります。ただ武力には反作用があります。こちらが武力を強化すれば、相手も負けまいと反応し、そうした軍拡競争の悪循環がむしろ危険な状況を招くというジレンマです(=「安全保障のジレンマ」)。なので、この武力強化の「手段」は常に弊害の面を考えないといけません。そうすると、平和と安全という「目的」のための「手段」としては、武力だけに偏らず、他の有効な手段を組み合わせるほうが賢明と言えます。

 
 二つ目の観点は、平和と安全のための「手段」の多様性です。国際関係に平和と安全をもたらす方法は多くあります。ひとつには、恩義が日本人を救うことがあります。1890年、和歌山県沖でトルコの軍艦エルトゥールル号が遭難した際、地元の人たちが献身的に救護をしました。100年近くたった1985年、取り残された日本人215人をイラン・イラク戦争の惨禍から救ったのは、「恩返しに」と飛ばしてくれた、トルコ政府の飛行機でした。こうした恩義や徳望、敬意などが国益につながる効果を「道義による平和」と言います。他にも「外交による平和」「法による平和」「経済による平和」「民主主義による平和」「市民交流による平和」「国連による平和」など、武力以外に平和と安全を得られるやり方が多々あります(それぞれの詳しい説明は文末のp.s.をお読みください)。これらはいずれも万能ではありませんが、一定の効果があります。しかし、安倍内閣には、こうした武力以外の諸手段を積極的に活用しようという姿勢は乏しいです。「外交がまず重要」と口では何度も言いますが、実際には日中、日韓の首脳会談などほとんど具体化していません。

 
 こう考えると、安倍さんのやろうとしている、武力に偏ったやり方で日本の平和と安全を図ろうという安保法制は、戦争だから反対なのではなく、日本の安全にとって効果が薄い、あるいは逆効果かもしれないから反対なのだ、という判断ができます。

 

■尖閣問題や中国の台頭にどう対応するのか

 中国との問題ですが、確かに対応が要るでしょう。安倍さんは、集団的自衛権の行使で中国を抑止したい考えです。つまり、集団的自衛権でアメリカを助けられるようになると、今度はアメリカがいっそう日本を守ってくれるから、中国はめったに手が出せなくなるという思惑です。しかしアメリカは中国とも仲良くしたいのが本音ですし、よその国の小さな岩(=尖閣諸島)を守るために米兵が命を捨てるとも考えにくい。逆に、尖閣諸島以外の世界の紛争地で、アメリカから助けに来いと言われたら断れなくなります。イラク戦争の前線で自衛隊が弾薬を補給するとしたら、リスクは大変高くなります。そもそもイラク戦争はアメリカ自身が間違いと認めています。間違った意味のない戦争に自衛隊員が命をかけるのは、ばかげた話です。あるいは、そこまでアメリカのために尽くすなら、代わりに「沖縄から基地を無くしてくれ」ぐらい言ってもいいでしょう。でも安倍さんは無くすのでなく、辺野古に移そうとするだけです。こう考えると、確かに抑止効果はありえますが、さほどでもなく、またデメリットも大きいとわかります。


 むしろ尖閣諸島の問題は、日本政府が日本の領土を守るのですから個別的自衛権の話です。個別的自衛権なら従来から合憲です。しかし安倍さんは今回の安保法制で、この点の法整備をしません。電話で閣議をできるようにするという運営の改善のみです。これでは不十分と感じます。民主党や維新の党が提案した「領域警備法」のように、何か新しい仕組みを立法することが必要でしょう。つまり、中国への対応は、集団的自衛でなく、まず個別的自衛の強化であたるべきです。
(続く)

米艦で逃げる日本人母子のパネル


■国会審議でどんな矛盾や問題が明らかになったか

 国会審議は全く時間が足りていませんが(そりゃそうです、今回11本もの法案があり、多くは一内閣で一本仕上げられるかどうかという重いものばかり)、それでも、具体的な欠陥がいろいろはっきりしてきました。最も象徴的なのは、このパネルです。これは、安倍さんが安保法制の必要性を話すとき、頻繁に使うものです。201471日、憲法の解釈を変えて集団的自衛権を行使するという、歴史的な閣議決定をした際にも示されました。国民に向けた記者会見で真っ先にこれに言及。今のままでは「日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない」、そんなことでいいのでしょうか、と訴えました。これを見た多くの人は、この安保法制ができればかわいそうな日本人親子を助けられると思い込んだでしょう。ならば安保法制、いいのではと。


 しかし審議が進むと、この日本人親子を必ずしも助けられないことがわかりました。この米艦防護のための集団的自衛は、新3要件にあたらなければできないのですが、日本人3人の命の危険だけでは新3要件にあたらないのです。「エー?!それじゃ話が違う~」という感じをうけませんか。

 
 一事が万事です。国会の審議であれこれ矛盾が出てきて、そこを野党がしつこくつくと、安倍さんは逆切れする始末。ヤジも数回飛ばしました。ふつう一国の宰相がそんな品のないことをしません。最後は「自分は正しいですよ、総理大臣ですから」というわけのわからない答え方までしていました。そんな国会の中継を見て、私は率直に「この人が首相でいること自体、日本の『存立危機事態』だ」と感じました。

 
 特別委員会での審議は、衆議院、参議院とも強行採決でした。問答無用の暴力的な進め方がおかしいとはみんなわかりますが、そのタイミングにも怒りを覚えます。参議院の会期末は27日ですから、まだ審議はできました。しかし5連休の前に強引に決めたのは、国民に連休で遊んで忘れてもらうためです。相変わらず、「なめられているなあ」と思います。

 

■安倍さんらの勢力がつくろうとする社会とは

他にも憲法の問題が重大なのですが、憲法の点でもこの安保法制はアウトです。この点はここでは省きますが、よかったらブログの記事「安保法制、核心つかめば難しくない-集団的自衛権を中心に(改訂版)」「集団的自衛と農薬8キロは違う-安倍・横畠“合憲論”への批判」を読んでください。ここまで説明したら、この安保法制がダメなことはある程度、わかってもらえたでしょうか。


 さて、最後に、私がなぜA君が安保法制に賛成することにショックだったか、説明しましょう。それは、今回の安保法制をはじめ、安倍さんらの勢力がつくろうとする社会では、A君のような人たちが最もしわ寄せを受けるような心配があるからです。


 特定秘密保護法で政府の権力はさらに強くなりました。どんな悪事や失敗も国民にばれる心配がないから、政府は怖いものなしです。本来、そんな政府を監視・批判するべきマスメディアは、安倍政権の過剰な干渉によって、衰退しています。大学は少子化の中、政府予算に頼るしかないので、政府の意向に沿う教育や研究しかできなくなっています。アベノミクスの恩恵は大企業に大きく、持てる者の財力が高まる一方、持たざる者の貧困層は拡大しています。さらに今回の安保法制で政府は武力行使の権限を拡大しました。つまり、国家権力、財力、武力など「力」が幅を利かせる社会になってきているのです。そこでは逆に「力」のない人たちは不利です。何よりも今回、安倍政権が憲法を露骨に無視したことは致命的です。憲法が機能すれば「力」のないに人にも、自由で平等な権利は保障されます。しかし憲法をないがしろにする社会では、弱者は虐げられるばかりです。ひたむきに生きるA君のような人たちは、権力、財力、武力などとは縁遠いゆえ、割を食い、また、いいように利用されてしまう心配があるのです。安保法制に賛成だというA君は、自ら進んでそんな社会を招いているようなもんですから、「しっかりしろ、目を覚ませ」と頬を張りたくなったのです。


 私はまじめでやさしい人がバカを見て、「力」ある人がのうのうと生きる社会はきらいです。安倍さんらの勢力が進めているそんな社会を、絶対変えねばならないと思います
。長い文章を読んでくれてありがとう。リサイクルのお店にも今度、寄りますよ。これからも健康に気をつけて、がんばってください。


草々


2015
920


饗場 和彦

(p.s.へ続く)


p.s. 武力以外に平和と安全を得るやりかた

 

●平和と安全のための手段は武力以外に多くあります。まず必要なのは「外交による平和」という手段です。そもそも私たちが不安を感じるのは、今日本と、中国、北朝鮮、韓国など近隣国との関係が悪いからです。原因は相手側にもありますが、双方の努力でまず友好的な外交関係を回復すべきです。しかし安倍さんは「対話の扉はいつもオープンだ」と言うだけで、自分から積極的に声をかけていく気はない。むしろ靖国参拝や歴史認識にこだわり外交を悪くしています。


●また「法による平和」という手段もあります。国家の間では必ずもめごとが生じます。昔はその解決手段の一つとして、ふつうに戦争が認められていました。だから昔の世界は「力(とくに軍事力)がすべて」でした。しかし徐々に法が支配する国際社会へと進化してきました(まだ道半ばではありますが)。今はもめごとを武力で解決してはならないという国際法(武力不行使原則)が確立しています。さまざまな条約や国際機構がつくられ、国家はかなりルールに縛られるのが現状です。こうした法の支配が強まれば国際関係は平和になります。日本はもっとこの点に注力して良いのですが、そもそも自国の憲法をないがしろにしていては、諸外国に国際法を守れと言っても失笑を買います。


●続いて「道義による平和」。国際社会は損得勘定で動くのが本質ですが、利害を超えた道義の力も存在します。困っている他国に手を差し伸べる国、平和や人道という理念を高く掲げる国、どの国とも友好的・中立的に外交をする国は恩義や徳望や信頼感を集めます。国としてのある種のブランド力です。そういう国は特定の国から大きな恨みをかいにくくなります。日本は唯一の被爆国、憲法9条、戦後の奇跡的経済発展、温和で勤勉な国民性などから、すでに一目も二目も置かれる存在です。しかし積極的な武力行使に乗り出せば、平和国家日本のブランドが壊れ、道義の力が致命的に落ちます。


●さらに「経済による平和」。交流や貿易などで経済活動が相互に深まると、持ちつ持たれつの関係になり、そうなると相手へのダメージは即こちらのダメージにはね返ります。なので、いくら相手を嫌っても結局自分の損になるから相手への攻撃は控えるようになります。こうした経済的相互依存関係を深化させることで、戦争や対立が起きにくい状況をつくっていけます。日本はとくに中国との関係で、この手段をもっと重視すべきなのですが、安倍さんの対中観は経済的実利より政治的プライドにあるようです。


●「デモクラティック・ピース論」という考え方があります。これは「民主主義国同士は戦争をしない」という説です。確かに今や日米欧の間で戦争など起きるとはだれも思いません。価値観や原則を共有するので相手を理解しやすく、また戦争を嫌う民意が政府に反映しやすいなどの理由が言われます。武力によって他国に民主化を強制するのは論外ですが、長い目で見れば、中国や北朝鮮の民主化が日本との関係やアジアの安定につながるのは明らかでしょう。この「民主主義による平和」という手段は、即効性はないですが根底から利いてくる手法です。


政府に限らず、市民レベルでも国家関係を平和にできます。「市民交流による平和」です。文化、スポーツ、学術、芸術などで諸外国と市民交流すると、個人間で親密な関係が生まれます。国全体や政府としてのイメージは悪くても、どこの国でも市井の人、一人ひとりをみれば大概、善良な人が多いものです。なので、市民交流が進めば、当事者間で確実に好感情が生じます。日本人の大学生が「中国に留学する前は周りの人に心配されたが、行ってみたら中国の人は親切でびっくりした」とよく話しています。逆もそうです。政府は民意の影響を受けますから、市民交流の活発化は結局、政府間関係の改善につながります。しかし現状は政府間の対立を受けて市民交流もさほど活発ではありません。


●なお国連は、外交と法、武力を組み合わせた「集団的安全保障」の仕組みで世界の平和を目指します=「国連による平和」。集団的安全保障は二つの約束でできています:①各国はもめごとを武力で解決しないという約束(武力不行使原則)、②それを破って武力を使った国には他のすべての国が束になって袋叩きにするという約束です。袋叩きにあいたくないから戦争は自制するという仕組みです。これは、字は似ていますが集団的自衛とは全く違います。集団的安全保障は町内会が一致団結して犯罪の撲滅に取り組むイメージですが、集団的自衛は町内会の派閥抗争で片方に加担して殴り込みをかけるイメージです。世界の平和のためには本来は国連による集団的安全保障のほうが望ましいのですが、安倍さんは集団的自衛を重視し、国連という手段は軽視しています。(終)


「ついつい」コラム
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集団的自衛と農薬8キロは違う-安倍・横畠“合憲論”への批判 
 
 コペルニクスはみんなに馬鹿にされても「それでも地球は回っている」と言い張りました。安倍内閣も、ほとんどの憲法学者や、歴代の内閣法制局長官、日本弁護士連合会、そして元最高裁判所長官までに違憲と断じられても、「それでも合憲だ」と言い張ります。結局、地動説が正しかったわけだし、ひょっとしたら安倍さんの言うことも正しいのかも。こういう一縷の不安を持つ人がいるかもしれません。大丈夫です。コペルニクスは<科学者>として<一流>でしたが、安倍さんは<民主主義社会の政治家>としては<三流以下>です。比較をしたらコペルニクスに失礼です。

すでに憲法学、法律学の点から安保法制を違憲とする論考はありますが、本コラムでは法学の専門知識がなくても「おかしい」とわかる観点から考えていきます。今回の安保法制のうち、もっとも明白に違憲と指摘される部分は、集団的自衛権の問題です(他にも、後方支援における武力行使の一体化論はかなり違憲の疑いが濃くなっていますが、ここではそれはひとまずおきます)。これまで政府の見解は、日本は憲法上、個別的自衛権の行使は許されるが、集団的自衛権の行使までは認められていない、というものでした。政府が今の国会で根拠として言及している、1959年の最高裁砂川事件判決、1972年の政府統一見解も同じ趣旨で書かれていると見るのが、一般的でした。
 

■安倍内閣が言う“合憲論”の理由

 ところが今回、安倍内閣は、これまで「できない」とされてきた集団的自衛権を「できる」として安保法制をつくろうとしています。「不可」が「可」になるのですから、普通は明らかに「変わっている」とみます。しかし、安倍内閣は「変わっていない」と主張します。「変わっていない」から「合憲だ」と言うのです。では「変わっている」のに「変わっていない」とは、どういうことでしょう。安倍首相や横畠内閣法制局長官らが編み出した“理屈”はこうです

 

1959年砂川事件判決や1972年政府統一見解は、憲法第9条の下でも国家の当然の権利として「必要な自衛の措置」はとり得ると認めている。

                 ↓

当時の情勢においては「必要な自衛の措置」とは「個別的自衛権の行使」を意味していた。

                 ↓

しかし今は情勢が変わった。日本をとりまく国際関係が不安定になっている。

                 ↓

現在の日本において「必要な自衛の措置」を考えるとき、「個別自衛権の行使」だけでは不十分であり、「集団的自衛権の行使」も必要である。

                 ↓

「必要な自衛の措置」という考え方は従来も現在も変わっていないから、従来、「個別的自衛権の行使」が合憲であったように、日本の自衛目的に限定した「集団的自衛権の行使」も合憲である。

 

つまり、「必要な自衛の措置」は憲法で従来から認められていますが、その具体的な措置の中身は時代や状況に「当てはめた」結果、違ってくるというのです。昔は個別的自衛権の行使でよかったが、今は集団的自衛権の行使が必要な措置となる状況なのですと。でも「必要な自衛の措置」という考え方自体は変わっていないから憲法の変更ではないと

この考え方、どうでしょうか。なるほど、「必要な自衛の措置」という基本原理は変わっていません。基本原理が不変なら、憲法が守られていると言えるような気がするかもしれません。

■個別的自衛と集団的自衛は「量」でなく「質」として違う

ここで決定的な意味を持つのは、個別的自衛と集団的自衛の違いです。この両者の違いは<量的な概念の違い>なのか、<質的な概念の違い>なのか、ということです。つまり個別的自衛権がたとえば「3」であり、集団的自衛権が「8」であるなら、両者の違いは「量」的です。他方、個別的自衛権がたとえば「X」であり、集団的自衛権が「Y」であるなら、違いは「質」的です。

次のたとえ話で考えましょう。

 

無農薬野菜をつくる農家があります。しかし、まったく農薬を使わないと害虫被害で全滅しかねません。そこで農家の組合でこういう原則をつくりました:「無農薬農家とはいえ収穫を得るのは当然の権利であるから、最低限の農薬は許される」。この原則に沿って、農家はこれまで最低限の量として3キロだけまいてきました。しかし最近は地球温暖化のせいか、害虫が大量発生します。収穫を得るには農薬を増やさねばならないので、今回、最低限の量として8キロを散布することにしました。

 

昔と今で状況が変わったので、農薬散布というやり方の「質」は同じままで「量」だけを変える対応です。こういう場合であれば、「最低限の農薬は許される」という原則自体は従来も今も守られているという理解は可能でしょう。

さて、個別的自衛と集団的自衛は、このように農薬の量が3キロと8キロで違うというような、程度問題の話でしょうか。つまり量的な違いに過ぎない話でしょうか。

結論から言えば、個別的自衛と集団的自衛の違いは「量」的なものではなく、「質」的なものです。個別的自衛は、日本が攻撃を受けた際にその攻撃国に対し日本が武力行使する行動です。集団的自衛は、日本と密接な他国が攻撃を受けた際にその攻撃国に対し日本が武力行使する行動です。つまり集団的自衛では日本自らは攻撃を受けていません。<攻撃を受けて>武力行使をするのと、<攻撃を受けていない>が武力行使をするのは、事実関係がまったく逆なのですから、両者は「質」が決定的に違うわけです。(続)

 


 しかし、ここで政府側はこんな風に反論するでしょう。「いや、質は同じです。今回安倍内閣が進めよとしている集団的自衛権の行使はあくまで日本を守るだけの限定的なものです。他国を守るための一般的な集団的自衛ではないのです。つまり、他国に対して武力行使があって、それを放置すれば日本の存立が危うくなる事態が生じる場合のみ、日本が武力行使をするのです。だから個別的自衛も、限定的な集団的自衛もあくまで日本の防衛ということが目的ですから同質の対応なんです」と。

なるほど、確かに両方とも目的は日本の防衛ですから、そこだけみれば同質でしょう。しかし目的に着目して「同じ」というのは意味がありません。というのは、およそ国家の行動はすべて究極的には自衛=自国の利益の追求を目的にするからです。いわゆるフルスペックの一般的な集団的自衛は他国防衛の行動とも言われますが、これも他国を防衛してあげることで自国の利益を見込んでいるわけで、究極は自衛なのです。なので、個別的自衛も、限定的な集団的自衛もその目的は自衛だから同質、という捉え方をしても、それは当たり前のことで、本質には関係がありません

本質にかかわるのは、自衛のために武力行使をするか否かの、その判断のしかたです。個別的自衛の場合は日本が攻撃を受けて、反撃するのですから「日本に対する攻撃の発生」という<客観的な事実>が存在します。他方、限定的な集団的自衛の場合は、まず「他国に対する攻撃の発生」があります。これは客観的な事実です。そして、それを日本が放置すれば日本の存立が危うくなる事態を招く場合においてのみ、日本が武力攻撃をできるわけですが、この「放置すれば日本の存立が危うくなる事態を招く」というのは、あくまで未来に対する予測です。つまり限定的な集団的自衛権の行使で武力行使をするための判断は、<主観的な推測>に基づくのです。<客観的な事実>に基づく個別的自衛と、<主観的な推測>に基づく集団的自衛。判断における客観性と主観性は対極の性質です。したがって個別的自衛と限定的な集団的自衛は、「質」において明白に違うのです。

まとめると、下の表のようになります。個別的自衛と限定的な集団的自衛は、二つの理由で「質」的に違うとわかります。①前提の条件として、自らが攻撃を受けてから武力行使するか(反撃)、自らが攻撃を受けていなくても武力行使するか(先制)、②判断のしかたとして、事実に基づいて武力行使の判断をするか(客観性)、推測に基づいて武力行使の判断をするか(主観性)、という二つの観点で、両者は対極の性質を持つのです。

 

 

    前提の条件

    判断のしかた

個別的自衛

自らが攻撃を受けてから武力行使する(反撃)

事実に基づいて武力行使の判断をする(客観性)

限定的な集団的自衛

自らが攻撃を受けていなくても武力行使する(先制)

推測に基づいて武力行使の判断をする(主観性)

 


■「質」的に違う集団的自衛は従来の憲法原則に当てはめられない

このように、個別的自衛と集団的自衛の両者が異質であるならば、安倍内閣の“合憲論”の主張は、その根拠を失います。なぜか。安倍首相や横畠長官は、憲法9条下で以前から認められてきた「必要な自衛の措置」という考え方を、その理屈の大前提におきます。そしてこの措置は時代や環境によって内容が違ってくると言います。現在の日本が置かれた状況を当てはめると、限定的な集団的自衛権の行使が「必要な自衛の措置」に含まれてくると。そこでも「必要な自衛の措置」という憲法上の原則は踏襲しているから憲法を変えているわけでない、と言うのです。しかし、この“理屈”が説得力を持つのは、当てはめた結果の自衛の措置の具体例が<量的な概念の違い>にとどまっていなければなりません。つまり、農薬の散布量が3キロから8キロに変わるような、<量的な概念の違い>の場合、そこでは基本原理は維持されているという理解もできます。同じように、「必要な自衛の措置」=憲法の基本原理は維持されているという主張ができるでしょう。しかし上述したように、個別的自衛と集団的自衛は後者を限定的とした上でも、両者は<量的な概念の違い>ではなく、<質的な概念の違い>が明白にあるのです。時代や情勢が変わったからそれに応じた新しい対応をしたいという発想自体はわかります。とはいえ、従来許された性質とは違う性質の対応を取ろうとするなら、それは改めてその是非を検討すべきなのです。以前から認められた原則があるにしても、質として違う対応である以上、自動的に従来の原則に当てはめることはできないのです。

このように考えてみれば、法学の専門家でなくても、安倍内閣の言う限定的集団的自衛“合憲論”がいかにおかしいかは、よくわかると思います。要は常識の問題です。911日の参議院特別委員会で民主党の小西洋之氏は、いみじくも「この安保法制は常識対非常識の戦いだ」と言いましたが、至言でしょう。市民の皆さん、専門家に遠慮せず、自信を持って安保法案の違憲性やおかしさを公言しましょう。(終)

 


「ついつい」コラム
(投稿済みの「ツイ」ッターに「追」加して書いています。仕事柄、政治の悪弊を「ついつい」論難してしまいます)

「自衛隊ノーリスク論」の嘘と根源的矛盾

 安保法制をめぐる安倍内閣の主張には詭弁が多くありますが、その際たるものの一つが「自衛隊ノーリスク論」でしょう。自衛隊は新たに集団的自衛の活動を始め、後方支援やPKO活動も拡大しますがリスクは増えない、という主張です。詭弁は詭弁であるが故、合理的な反論にあえば破綻します。国会の審議が頻繁に止まるのはその現れです。それでも答弁者席に座っているならまだしも、安倍首相はテレビ出演などでしばしば欠席しています。中谷防衛大臣はまじめに出席していますが、的外れな答弁で右往左往し、見ていてかわいそうなくらいです。

 政府が自衛隊のリスクは増えないと表向き言っていても、防衛省の内部では具体的に詳細なリスク対応の検討が先取りしてなされていることが内部文書の発覚でわかっています。国民には「安全だから」と言っておいて、でも本当は危ないから裏で早々に対応を始めているという、この姿勢。こういう国民をだますような態度は、今回の安保法制全体に通底している特徴です。


 

■恒久法?権限の拡大?危ないなら逃げる?

このノーリスク論、何がおかしいのか、背後にある根源的矛盾も含め、今一度、整理しておきましょう。安倍首相は自衛隊のリスクが増えない理由について、「恒久法にするから」と言っています。これまで自衛隊は特別措置法という臨時の法をつくって海外に出されることがありました。テロ特措法やイラク特措法です。今回、普通の法律と同じ恒久法をつくれば、自衛隊は日ごろから準備や訓練ができます。政府は、だからリスク減になる、と主張します。しかしこの理屈は、特措法と恒久法が同じ内容であることが前提です。今回の国際平和支援法の恒久法では、特措法よりも任務が拡大、高度化しています。また、恒久法に変えるといっても、それは一部に過ぎず、多くは今ある恒久法の法改正の形です。なので、恒久法になるから安全という理屈はごく限定的な意味しか持ちません

また、「現場の権限を増やすから」という理由も言っています。確かに一般論として、活動の自由が増せば安全確保もしやすくなる面はあるでしょう。しかし逆効果もあります。その典型がPKO活動です。自衛隊は今回の法制案で、他国の部隊を助けに行き、一緒に基地を防衛し、武器を使う制限もゆるくなります。敵の撃退という面では有意義ですが、ここで致命的なのは、PKO部隊としての中立性の喪失です。こういう積極的な戦闘行為に乗り出せば、紛争の当事者となります。国連PKOは中立の立場であるからこそ成果があり、安全であったのですが、当事者になってしまえば標的とされます。したがって、自衛隊の新たな権限は必ずしもリスク減にはつながりませんPKOにおける自衛隊の活動の拡大自体は意味があります。しかしそれは別の争点です。本コラムではPKO活動を拡大すればリスクが増えるのは明白という論点を取り上げています)。

さらに、政府は「危なければやめるから」という理由も挙げます。これはもっともです。危ないところからすぐ逃げればリスクは抑えられます。しかし、複数の国家が共同して行う軍事オペレーションで日本だけ勝手に退避するのは非常識です。そもそもそんな「腰抜け部隊」なら始めから来るな、ということになります。そしてイメージとしては、いかにも「かっこ悪い」。衆議院では当初、政府は自信ありげにこの「退避論」を公言していましたが、その後、安倍さんがインターネットのテレビで説明した際は、言いませんでした。リスク減としては正論ですが、あまりにかっこ悪いので、ネットを見ている若い層からの批判を心配したのかもしれません。

政府は、自衛隊員の安全確保(「北側三原則」として公明党と合意したもの)をすべての法案に明記したと述べましたが、参議院の審議で、実は「米軍等行動関連措置法」では抜け落ちていることがわかりました。自衛隊のリスクについて、立法上の技術論としても不備があるわけです。(続)





■ノーリスク論に逃げる、覚悟も能力もない安倍首相

 今回の安保法制は自衛隊の活動を質的、量的に大きく変えます。集団的自衛権の行使という活動について、安倍首相は従来の専守防衛と変わらないと言い張りますが、違います。質的に全く新しい任務です。これまでは日本が攻撃を受けたときに日本が武力行使をするのですが、この安保法制では日本が攻撃を受けなくても日本が武力行使をするのですから、ぜんぜん違います。また、後方支援の任務は従来もありましたが、量的に拡大されます。これまでは日本周辺の非戦闘地域で後方支援をするだけでしたが、今回、世界中どこでも、今、現に弾が飛んでこないのであれば、戦闘地域でも活動できると変わります。輸送するのも食糧などに限らず、法理上は核兵器までも運べます。さらに他国の武器などを守る活動も新たに課されます。

このように質的、量的に新たな任務が増えるのに、それでも「リスクは増えない」という安倍内閣の説明は、国民をなめているのかと、あきれるしかありません。確かに「リスクが増える。殉職者が出るかもしれない」という答弁をしたら世論の反発は大きいでしょう。それを正面から論駁して国民の理解を得るのは大変です。だから、ごまかしと強弁でかわしたいというのも、人間の気持ちとしてはよくわかります。しかし今回の安保法制は、憲法を実質的に変えてまでやろうとする、戦後の安全保障体制の大転換です。これほどの“歴史的な偉業”をなしたいのであれば、逃げてはだめでしょう。全うな政治家としての矜持があれば、「リスクはないですから」なんて主張、恥ずかしくてできないはずです。本来、安倍内閣が言うべきは、「確かにリスクが増える。自衛隊に死者も出るかもしれない。それでも日本の安全のためにはこの法制が必要なのだ。なぜならば…」という主張です。自衛隊員が日本の安全のために犠牲になるのはある意味、組織として当然ですから、この主張は暴論ではありません。でも死者が出るかもしれない話を世論に納得してもらうには、相当のエネルギーと時間が要るから、やっぱり逃げるわけです。この点を突き詰めると、安倍さんの資質にいたります。要は困難から逃げて楽をしたいという、覚悟も能力もない政治家という問題です。


 

■軍隊でない自衛隊を戦地に出す矛盾と政治の無責任

そして、このリスク論に関して、最も根源的な矛盾を見逃してはいけません。それは自衛隊はこれまでも軍隊ではなく、この法制ができても依然、軍隊ではない、という点です。自衛隊は自衛軍ではありません。これは憲法9条の制約で軍隊は持てないからです。しかし日本政府は日本が攻められたときに反撃する自衛(個別的自衛)の戦争は可能と解釈してきましたから、自衛の戦争を戦うだけの手段として、軍隊ではないが実力組織は持てるとしてきました。その結果、自衛隊は軍隊でなく警察としての性質に限定されてきました。ですので、あらゆる点で自衛隊は軍隊としての活動ができにくいのですが、にもかかわらず冷戦後、自衛隊はしだいに本来、軍隊が行う任務に駆り出されてきました。PKOでも、周辺事態での米軍との協働でも、特措法での後方支援でも、現場は戦地であり軍隊が求められるのに、自衛隊は軍隊としての活動ができないという本質的な矛盾を押し付けられ、これまでやってきたのです。これまでこの矛盾が表面化せず、自衛隊に死者も出なかったのは現場の自衛隊員の努力と脱法まがいの柔軟な対応、そして幸運に恵まれたからです。それが今回の法制でさらに自衛隊の軍事行動が拡大されるなら、とうに限界を超えている矛盾が具体化する可能性は極めて高いと言えます。

本当の意味で自衛隊のリスクを下げようとするなら、方法は二つです。一つは憲法を変えて正式に自衛軍とすること、もう一つは軍でない以上、戦場に出さないという対応です。ところが与党の政治家はこの実態を知らないという無知ゆえか、知っていても無視するという無責任ゆえに、これまでそのいずれの選択も取ろうとせず、中途半端な活動を自衛隊に押し付け、矛盾に目をつぶってきました。この姿勢は安倍さんも同じで、さらにその矛盾を深めようというのが今回の法制案なのです。

私もPKO活動などで自衛隊の現場を見ていますが、彼らはとてもまじめで熱心です。幹部自衛官には優秀な人も多い(ときどき、田母神俊雄さんのような困った人はいますが)。自衛隊は高く評価されていいのですが、いかんせんその自衛隊を使う安倍首相や政府の姿勢、能力に大きな疑問符がつくわけです。不憫な自衛隊員の立場をかんがみれば、いっそうこの安保法制を通してはいけないと確信できます。(終)

「ついつい」コラム
(投稿済みの「ツイ」ッターに「追」加して書いています。仕事柄、政治の悪弊を「ついつい」論難してしまいます)


アンコ多いのに後味まずく-戦後70年の“安倍談(団)子”

 安倍首相の戦後70年談話は、「アンコたっぷりなのにおいしくない」、そんな団子を食べた感じです。少なくともアジアの近隣諸国に贈れる代物ではありません。

 一見、この談話が評価できそうに思えるのは、過去の侵略戦争を悔いて、被害者に詫びて、不戦の決意を示すような言葉がけっこう出てくるからです。注目された四つのキーワード「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「おわび」もすべて入りました。また、印象的な段落があります。


 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれ の人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

 この文章は平易ですが、被害者の心情に深く配慮する語感を醸しています。あるいは談話の終盤で、「私たちは、~しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ~」という定型の表現を4回繰り返しています。負の歴史を教訓にしようとする姿勢が、修辞上の効果と相まって、強く伝わるように感じます。

 

■自国史の正当化

 この“安倍談(団)子”、その辺は「おいしい」のですが、食べ進めると妙な不味さが口に広がります。これはなんなのでしょうか。何度か読み返すと、違和感を持たされる段落、文章がいくつか見えてきます。


 談話の序盤では、日本の近代史をふり返っています。以下にその文章を省略して記します。


 
百年以上前の世界には、西洋諸国の植民地が広がっていました。植民地支配の波はアジアにも押し寄せました。日本は近代化(を進め)、独立を守り抜きました。日露戦争は植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

   
 一千万人もの戦死者を出す第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、国際連盟、不戦条約、戦争(の)違法化(など)、新たな国際社会の潮流 が生まれました。

   
 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。日本は行き詰まりを力の行使によって解決しようと試みました。

   
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は「新しい国際秩序」への「挑戦者」となり、戦争への道を進んで行きました。


 この記述の行間と紙背を読んで、安倍さんの言いたいことを「ぶっちゃけて」書き換えるとこうなるでしょう。つまり、①昔は欧米諸国だって世界を植民地化してずいぶんひどいことをしたんです、②その中で日本が独立を守り大国ロシアに勝ったのは素晴らしいことでした、③第一次世界大戦後、日本は最初から変な魂胆を持っていたわけではありませんでした、④世界恐慌と大国による利己的なブロック経済が日本を追い込んだのです、⑤資源のある大国と違い、日本は武力で打開するほかなかったのです、⑥第一次世界大戦後の世界体制は欺瞞もあったから、日本はその異議申し立ても含んだ立場として「挑戦者」だったのです、単なる「ならず者」(国家)でなく――。

 

要は、「70年経っても日本の侵略戦争が非難されるが、欧米も世界を植民地化したではないか。その中で日本は頑張ったのであり、そもそも列強諸国が日本を戦争へと追い込んだのだ」と言いたいわけです。日本は悪くないという正当化です。
 

■お詫びの打ち切り

また、お詫びに関する文脈で以下の文章、段落が目を引きます。

    我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

ここはすでに多くの指摘があるように、反省とお詫びは「他の内閣が」「これまでしてきた」という客観的な過去完了の表現です。「安倍内閣が」「今はどうなのか」という主観的な現在形の文がありません。つまり、「戦後70年の節目に当たり、私はあらためて痛切な反省と心からのお詫びを表します。」といった文がないのです。談話では「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎない」として、安倍内閣も同じ考えであるように書いてはいますが、これは間接的な表現です。つまり安倍さんは少なくとも直接的には反省とお詫びを言いたくないわけです。

 さらにお詫びに関して、以下の文章、段落が注目されます。

    日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。

「子や孫、…その先の世代…に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とあります。要は、戦争に関わりのない戦後の日本人がいつまでも謝り続ける必要はない、と言いたいわけです。先に述べた安倍さん自身の「詫びたくない」姿勢と合わせて考えれば、この談話は「日本はこれまで十分謝ってきたから、首相も国民も戦後70年を機に謝罪は終わりにします」と、言いたいように読めます。(続く)


■寛容と未来

 加えて、ひっかかる言葉が「寛容」と「未来」です。それぞれ2回、5回談話中に出てきます。

    寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。


 確かに、敵対国の日本を許し援助してくれた諸外国の寛容な対応に感謝するのは理解できます。そして未来を向いて努力する姿勢も大事です。しかしこの文脈は少し角度を変えると、いつまでも日本の過去をあげつらわず、寛容の心で水に流しましょう、という含意がよみとれるかもしれません。


 このように日本の近代史の正当化、お詫びの打ち切り、寛容の促進、未来志向という観点に注目すると、この談話の持つ違和感の本質がわかります。つまり、安倍談話の言いたいことの一つは、「日本の戦争は日本だけが悪かったわけではない。それに十分謝った。もう水に流して未来を向こう。日本はいい国なんだ」という思いです。このとらえ方はどうなんでしょうか。

 

■正論だが「お前が言うな」

安倍さんや日本会議をはじめとする保守派の人々はこの考え方に強く共感するでしょう。日本をさげすむ「自虐史観」でなく、日本の誇りを取り戻そうとする「自由主義史観」、あるいは歴史修正主義の見方です。実は、私もこれはこれで一つの見方としてあっていいと思います。確かに日本の近代史や戦争について日本を正当化できる側面はありましたし、政府は繰り返し反省や謝罪を表明しています。いつまでも過去を引きずらず、未来志向で臨むほうが建設的です。なるほど一つの正論ではあります。しかしこの見方を好んで口にする日本人の人たちには極めて致命的な欠陥がありますそれは、寸鉄ひとを刺す一言でえぐられます:「日本よ、お前が言うな」

いくら正しくても、その立場と状況によっては言ってはいけないことがあります。たとえば、お通夜の席で、自殺した子供の親に対し、家庭環境が悪かったせいだなんて話は、仮にそうだとしても、できません。親自身が「私の育て方が悪くて」と言うことはできます。この安倍談話の主張もそうです。つまり、「あなたにももっともな言い分があるんですね。もう謝らなくていいですから。一緒に前へ進みましょう」という言葉は、被害者の側のみが日本に対して言える言葉なのです。加害者という日本の立場で発すべき言葉ではありません。安倍さんら保守派の人々には、こういう点で驚くべき、恥ずべき無神経ぶりをさらけ出しているわけです。

 

■加害者の「慎み」に欠ける安倍内閣

日本文学の研究者で、日韓関係の改善にも積極的にとりくんでいる朴裕河(パク・ユハ)世宗大学教授は、和解の可能性についてこう明言しています:「被害者の示すべき度量と、加害者の身につけるべき慎みが出会うとき、はじめて和解は可能になるはずである(傍点筆者)」。つまり、和解は被害者の側の赦しからしか始まらないが、その度量を被害者が示すには、同時に、加害者が慎み深い姿勢を持たねばならないというのです。この朴教授の指摘をもとに考えれば、安倍談話で暗に示されている日本の戦争の正当化、謝罪の打ち切り、寛容の促進、未来志向という考え方は「慎み」どころか「厚かましさ」としか映らないでしょう。加害者の日本がこんな厚かましい姿勢を取り続ければ、被害者のアジア諸国も度量を示して赦すわけにはいかないのです。結果、このあと戦後80年も、90年も和解は進まず、双方にとって不毛な問題が残り続けることになってしまうのでしょう。

このコラムの前半では、安倍談話を読むと一見、謙虚で真摯な文章が多くちりばめられていて評価できそうな感じがしたという点を記しましたが、繰り返して読んでみるとその背後には後半指摘したような、ある種の「厚かましさ」が横たわっているのが見えてきます。つまり一口目はおいしいが、後味が不味い団子のような。その不味さの正体「厚かましさ」は、「慎み」とは対極にあるものですから、朴教授の言うような和解には進んでいけないわけです。となると、70年どころか、いつになったら私たちは戦争の桎梏から逃れられるのでしょうか。暗澹たる思いに心が塞ぎます。“安倍談(団)子”、単に不味いだけでなく、「心がひどくもたれる」お菓子です。(終)