ゴーマンでなくギマンでなく-中間派の人向け「安保法制」論
(no.2=「戦争反対」は大げさでないか)
安保法制に「反対ではないが、賛成もしにくい」という中間派の人は、まず安保法制の反対論にいくつか疑問を持ちます。反対派の人たちは「安保法制は『戦争法』だ。日本はまた過ちを犯すのか。誰も殺させない。戦争反対」などと主張しますが、中間派の人はここで首を傾げます、「大げさなんでは?」と。今回はこの疑問を考えます。
■安保法制で日本はまた戦争をするのか
安保法制によって戦争が再発するから反対という「戦争再発反対論」は、戦争を経験した年配の方たちや社民党、共産党、労働組合の人たち、あるいは憲法9条の護憲運動に長く関わってきた人たちから、よく聞かれます。ここには少なくとも三つの要素があります。一つは安倍さんは戦争をする気なのか、という点。安倍さんは戦争するなんて一言も言っていません。あくまで日本の平和と安全のためにこの法制をつくると再三、繰り返しています。「信用できない」と言ってしまえばそれまでですが、根が善人の中間派の人たちは、はなから悪意で人を決めつけるのはどうか、とも思うのでしょう。
もう一つの要素は、昔のような戦争がまた起きるのか、という点。中間派の人ももちろん70年前の戦争がいいとは思っていませんが、アジアを侵略し、アメリカと死闘するような戦争が今の時代、起きるとも思えないのです。高齢者の方の戦争経験談にも大変同情しますが、同じことが自分たちにも振りかかるとはやはり想像できにくい。だからまた戦争が起きるぞと、反対派の人が言ってもぴんと来ないのです。
三つ目はいわゆる「レッテル貼り」でないのか、という点です。社民党の福島みずほ議員が国会で「これは『戦争法案』だ」といったら、安倍首相は「レッテル貼りだ。矮小化している」と反発しました(2015年4月1日、参議院予算委員会での質疑)。確かに戦争法と一蹴してしまうのは単純すぎる気もします。
このように中間派の人は「戦争再発反対」論に、嘘っぽい、大げさな文脈を感じて、そこにギマン(欺瞞)を覚えるようです。さて、これらの論点、どう考えるとよいでしょうか。
■目的としての戦争・手段としての戦争
まず、最初の点、安倍さんは戦争をするのか。「安倍さん、戦争したいのですか』と聞けば、当然「自民党で誰もそんなこと思っている人いませんよ」と答えます(インターネット配信番組「安倍さんがわかりやすくお答えします!平和安全法制のナゼ?ナニ?ドウシテ?」)。ここで大事なのは、戦争を「目的」と「手段」に分けて考えることです。昔も今も、戦争を「目的」として、やりたがる政治家はまずいません。よくあるのは戦争を「目的」でなく、「手段」として行うケースです。つまり、国益という「目的」のために軍事力という「手段」を使うわけです。確かに安倍さんも自民党も戦争自体を「目的」としてやりたいわけではないでしょう。安倍さんは日本の安全という「目的」のために、集団的自衛権の行使を始め自衛隊の軍事力を「手段」として活用したいわけです。軍事力の活用と戦争は必ずしも同じではないですが、安倍さんはこの法制によって、明らかに「手段」としての軍事力を重視し、多用しようとしています。つまり「安倍さんは目的として戦争をする」という見方は間違いですが、「安倍さんは手段として軍事力を多用するという意味において戦争をする」という見方なら、的を射ているわけです。言い方を変えると、目的という点から見れば政府が言うように確かに「平和安全法制」ですが、手段という点から見れば「戦争法」なのです。そう考えると、「これは『戦争法』だ」という反対派の主張は半分、当たっているわけです。
■弱い市民が強い国家に向き合うときの基本姿勢は「不信」
また、安倍さんをはなから信用しないという姿勢はどうでしょうか。人を信用するかどうかという問題は、<市民vs市民>の場合と、<市民vs政府>の場合とで、違ってきます。一般の市民同士では道徳的にも功利的にも相手への信用は大切です。しかし、市民と政府の関係においては、その権力関係の非対称性ゆえに、市民が政府に向き合う場合、不信の姿勢が基本であるべきなのです。つまり、政府が持つ圧倒的な国家権力の前で、市民は致命的に脆弱であるため、常に国家権力の行使に対し警戒と心配、不信の念で当たるほうが安全なわけです。たとえば獰猛な猟犬がいる家の前を通るとき、その飼い主を信用せず、鎖が外れているかもしれないと警戒していると、万が一襲いかかられてもすぐ防御や逃避ができるのと同じ感覚です。なので、国家権力の最悪の行使である戦争が議論になるとき、何度も痛い目にあって骨身にしみている市民としては、わずかでもその危険が推測できるならば、徹底した不信感をもって政府を警戒するという姿勢は、市民の立場ではきわめて自然な、また不可欠のスタンスといえるのです。結果として杞憂に終わることも多々ありますが、杞憂ということは戦争など起きなかったわけですから、もとより、それに超したことはありません。こう考えれば、安保法制に反対する人たちが安倍さんをはなから信用しないのは、戦争という問題設定で市民が政府に向き合うとき、至極当然の姿勢といえるのです。
■70年前のような戦争はおきにくい
もう一つの要素、昔のような戦争がまた起きるのか、という点はどうでしょうか。結論から言うと、国際政治学の研究者の間では、日中戦争や太平洋戦争などの全面戦争が日本を含め欧米先進国間で起きるとはほとんど予測されていません。また日本と中国、アメリカと中国の間でも全面戦争の可能性はほとんどゼロと見られます。これは、相互依存が深化した経済関係があると戦争はペイしない(引き合わない)こと、核兵器の抑止力がきいていること、民主主義国同士では戦争の可能性が低いこと(中国は別ですが)などから説明されます。なので、この点で、安保法制反対派の主張として70年前の戦争をことさらに持ち出しても、印象としてズレを生むのは否めません。
ただ、全面戦争ではなく、偶発的、局地的な武力衝突やテロによる被害の可能性は小さくないと見られます。尖閣諸島を含む東シナ海、南シナ海における中国の膨張主義的、冒険主義的行動が、軍事衝突を招く危険度を上げています。また、ISISなどによるテロ活動は歴史的、構造的な背景に根ざしているため、即座に撲滅できたり自然に収束する類の事象ではないと見られます。なので、当面、世界のどこでもテロの不安が拡散すると懸念されます。こうした局地的な武力衝突やテロ活動に対して今回の安保法制がどの程度、有効なのかは別途検討します。いずれにせよ、「戦争再発反対」論で安保法制を批判するとき、70年前の戦争を前面に出しすぎると、中間派の人が違和感を持つのは順当な反応と考えられます。
■「貼る」行為が悪いのでなく「レッテル」が適切かどうか
レッテル貼りの点はどうでしょうか。レッテル貼りというと悪い印象が強いですが、「あなたは明るい人ですね」という言い方も良い意味でのレッテル貼りになります。ある問題について多くの情報があり多くの側面がある場合、その問題を効率的に把握、理解するには最も本質的な、象徴的な一面に全体を代表させるほうが合理的です。その意味で、レッテルを貼るという行為自体がはじめから悪いわけでなく、焦点はそのレッテルが適切なのか、という点にあります。安倍さんは「戦争法」というレッテル貼りはけしからん、と言っていましたが、自分は「平和安全法制」というレッテルを貼っているのですから、行為としてはお互い様です。そのレッテルが核心を的確に映しているかどうかが問われるべきですが、上述のように、手段の観点から見れば武力の強化を旨としている法制である以上、「戦争法というレッテル」は必ずしも的外れではありません。
■「戦争反対」は大げさな感じはしても市民として不可欠な主張
このように考えると、安保法制に反対する人たちが「戦争反対」と訴えるのは、確かにずれている面があるとはいえ、基本的には有意義な主張であり、むしろ弱い市民の立場から強大な国家に対抗するという点では必要不可欠な意味を持つ訴えとして評価できるでしょう。(no.2終)