なんか嫌味な題になりましたが、

最近、お金持ちと思われる人々について、気付いたことがあるので、書きます^-^

 

お金持ちのタイプには、大きく分けて二つのパターンがあるように思います。

 

それは、

自ら努力して、自分の代で築いた、「お金持ち」、

生まれながらにそういう家に住み、お金を引き継ぐ「お金持ち」。

 

今回の油断大敵と書いたのは、後者の、「引きついだ」お金持ちの人々のことです。

 

というのは、わたしの嫁ぎ先のご先祖様は、大昔に良いことをしてくれた方がいるらしく、

代々お金持ちの親戚が多いのです。

わたしも嫁いで、18年ほど経ち、その人たちのことをずっと見てきて、

最近感じる違和感を説明します。

 

お金持ちあるあるとして、

その醸し出される、優雅な雰囲気、

ゆったりとした余裕、落ち付いた物腰と同時に、

何かこう・・冷たい感覚を受けたのは、わたしが一般家庭出身だから感じられたのかもしれません。

 

お金がないという事態は、ある面では寂しいものだったり、

悲しいものだったりしますが、

別の側面として、「物の有り難味」

「人の優しさ」

「努力」

というものを掘り起こしてくれます。

 

それは、生きていくために、自ら働き、身を投じ、気を遣い、

それに伴い与えられるお金や物質の有り難味を肌身で感じながら

人に対しても苦労したり、時には助け合い、与えあいながら、

生きていくということを余儀なくされたりするからです。

 

そこを通過してお金持ちになった人は、「幸せなお金持ち」と言われるのかなあと思います。

 

何が言いたいかというと、結局私が生まれながらにお金持ちの人々に言いたいのは、

 

「そのお金は、先祖から引き継いだ、`徳`ですよ」

 

というものです。

 

あなた方が生まれて引き継いだ先祖からのお金たちは、

あなた方が使うためにあるものだけれど、

素晴らしいあなただから、与えられた賜だろうけど、

その「徳」は、いつかは無くなる。

 

だから、

お金のある人も、無い人も、共通することですが、

今まで何気なく幸せにやってきた人々は特に、

 

「徳積み」をしていくことが大切に思います。

 

先祖が命を繋いでくれた中で、

先祖のみなさんが、一生けん命生きてきたり、その中で人に良いことをしたりして、

そのたびに徳は積まれました。

わたしたちは、自分も含めて、

その徳を何の気なしに今まで使ってきたけど、

それを自分の代で使い切ってしまうと、

後に続く子孫たちのところで、徳切れになってしまうのです。

 

今までうまくいっていたのに、

急にすべてがうまくいかなくなったり、

ある時から、やることなすことうまくいかない・・という人は、

自分のところにあった徳が、無くなってしまったということが考えられます。

 

そもそも人間は無限力であり、なんでもできます。

けれど、そのことと、「徳」ということは、また別問題なんです。

 

コメディアンの萩本欽一さんが、ご自身の本で詳しく書かれていましたが、

徳というものは、量が増えたり減ったりする、質量のあるものなんです。

 

主人と話しているのは、

これからは、世界になるべく、自分なりの「恩返し」をしていきたいねということを言ってます。

小さいことばかりです。

地域の活動に参加したり、仕事の中に親切を表現したり、

店員さんにお礼をしっかり言ったり、時には募金をしたり・・

その中でも、一番大きいのは、先祖供養だと自分は思っています。

今まで徳を積んでくれた御先祖様に、恩返しが出来るからです。

そして、それらを意識するのとしないとでは大違いだし、

今していることが人から評価されなくても、その徳は、子孫に行くと考えれば、

 

親切をしてお礼を言われなくても、拍手喝采を浴びなくても、

それは天の蔵に徳を積むことになる。

 

たとえ、

自分が損をして誰かが良い思いをしても。

ずっと努力したことが、とうとう認められなくても。

思い切り頑張ったけど、評価されない人生でも、

その頑張りはちゃんと天が見ています。

 

今、生まれながらにしてお金に恵まれている人はなおさら。

この自分に与えられている今の恵みが、

自分の愛する子孫や、次の自分の生き方に更なる恵みをもたらすように、

意識して生活することを、とってもおすすめします。

 

それは自分に言うことでもあり、

わたしも精進していきたいと思っています^-^