最近ふと思うことがあり、”手放し”について書いてみることにする。

昔、"手放し"や"手離し"という響きが怖かった。

大切なものを捨てないといけないのでは?
必要だと思ってきたものと縁がなくなってしまうのでは?
そんなことをよく思っていた。

依存や執着、そういったものを整理して
適切なスペースに自分にあったものを、という考え方なのだけど
どこからが依存でどこからが執着なのか、
自己愛の軸を持っていないと考えるのすらしんどくなってしまう。

特に自分の弱い部分に手放しが関わってくると
自己の確立が揺らぎがち。

手放しって簡単に言うけど、
人間の気持ちってそんなに簡単に割り切れない時もあるし
そもそも手放し自体にバリエーションがあることってあんまり書かれていない気がする。

手放しって0-100じゃなくてもいいし、
グラデーションがあってもいい。

わたしたちは手放す力を本当は持っているのだけど、
本来発揮しなくてもいいところで過剰に力を入れてしまって
手放そうと思うと逆に執着してしまうときがある。

そういうとき、
写真やスクショの削除から始めつつ
よくやる方法を書いてみた。

①自分の手放し
以前ここでもちょっと書いたのだけど、
私は旅行を脱皮だと思ってる。


クローゼットの洋服を整理しようと改めて思うと腰がなかなか上がらないし
衣替えの時にはなかなか判断がつかなかったりする。 

そういうとき、あと1回ぐらい着たい子たちを
別の場所に移動する。
(物理的にはここで通常使ってるエリアのスペースを開ける)

旅行準備のとき、
そこから旅の服を選んでみる。

もしピンと来なかったらその時点で手放してもいいし、いくつか選んで他のものとミックスしてもいい。


旅が終わるころ、
今までの自分の一部は文字通り旅立っていき、
スーツケースの中はワクワクのものしかない。

しかも帰宅したら洗濯するものもほぼないし
片付けもワクワクのものだけだから全然苦じゃない。

容姿も、物理的に以前の私とはどこかが違っている。

②気持ちの手放し
ここでも書いたのだけど、
どうしようもない自分の気持ちを「書く」ことで手放していく方法をメインで使っている。


言えると癒えると言われるように、
誰かに聞いてもらうことも一つの方法だけど、
そこにはその話を聞いてもらう人のリスクも抱えているから
自分に"言う"方法として書くことがあったっていい。

そもそも言えると癒えるのは
本当にその言葉を聞きたいのは自分なのだし。

目で見ることのできない気持ちというものを、
物理的に書くことで明確化し、視覚的に整理していく。


ただ、中には書くこと自体が怖いステータスや
複雑に入り組んでいてうまく書けないものもある。

そういうときはまず無理に書こうとせず、
時期がくるのを待つ。
書けない自分を責める必要なんてない。

次の段階として、砂の城が風に吹かれて少しずつ崩れていくイメージを使う。
少しずつ、少しずつ。

手放しの定義はどこにも明確に書かれていないけれど、
スペースが空くとそこに何かが入ってくるから
日常の景色が何かしら変わったら
それがその証。

今日もちゃんと進んでる証。