「ルネ・デカルト Rene Descartes」フランスの哲学者。
 
近代哲学の父として知られ、
我思う、ゆえに我あり」は哲学史上でもっとも有名な命題の1つ。
 
デカルトの名言
 
真理を探究するのであれば、人生において一度は、
あらゆる物事をできる限り深く疑ってみる必要がある

 
なるほど。では「我思う、ゆえに我あり」を疑ってみる必要がある。
 

 

 

我思う、されど我なし

 


 
私は、いったい「何処までが私」なのだろう?
 
私の「髪」や「ひげ」「爪」は「私」の一部なのだろうか?
 
では、切った途端に「私」でなくなるのだろうか?
 
もし、事故で「腕」を切断してしまったら、「腕」は私の一部でなくなるのだろうか?
 
手術で「腕」つなぐことができたら、再び自分の一部に戻るのだろうか?
 
臓器移植して、「他人の体」が「自分の体」の中に入ったら、それは何?
 
自分の「ガン細胞」は自分ではないのだろうか?
 
おかあさんのお腹の中の胎児は、やはり他者なのだろうか?
 
それとも、生まれた途端に他者になるのか(法律ではそうです)
 
生まれた途端とはいったい何時なのか?
 
へその緒が切断された瞬間だろうか?
 
…こんなことを考えている、私の脳は大丈夫だろうか?
  暑さのせいで、脳が壊れたのかもしれない…


人間の場合は、まだ何んとかなるとしても、
「植物」「微生物」「菌」などは、もうお手上げである。
 
結局、「生物学」「物理学」あるいは「その他の科学」で「客観的」に
「自己」と「他者」を分けることは不可能である。(できるなら、やってみ)
 
心理学や哲学に於いてのみ「自己」と「他者」が存在する。
とすると「自己」とは「心理的存在」以外の何物でもない。
 
自分が自己だと「思えば」自己なのだ。(これでいいのだ)
 
どうりで、母親が赤ちゃんを自分の一部と思うのは納得できる。
父親が自分の家族を、自分自身と同じに思う理由もわかる。

 

野球選手は、バットやグローブを自分の体のように「感じる」

「車好きの人」は「車体」を傷つけられると「自分の体」が傷つけられたと「思う」

 

自分の好きな選手(チーム)が勝てば「自分の事のように」嬉しい。

奈良県出身のボクサーを、何としても勝たせたい気持ちも同じだ。
 
普段「愛国心」など無い癖に、スポーツの国際試合で自国の選手を
応援してしまうのも、「自我を拡張」してしまうせいだ。
 
 
煎じ詰めれば「利他主義」など存在しない。
すべて「拡張自我」の「利己主義」と言える。
 
問題は何処まで「自我」を拡張できるかだ。
 
奈良県出身のボクサーだけが「自己」であって、他県の選手は「他者」だ。
そんな人物は「日本ボクシング連盟の会長」ではない。「県連の会長」止まりだ。
 
すくなくとも、日本人選手は全員「自己」のように思わなければならない。
できれば「世界中の選手全員」を「自己」のように思ってもらいたい。
 
リーダーに求められるのは「器の大きさ」なのだ…

 


 
追記
 
神経解剖学者のジル・ボルト・テイラーは、自らの脳卒中の体験を記した
『奇跡の脳』の中で、次のように述べています。
 
 これまでの「からだの境界」という感覚がなくなって
 自分が宇宙の広大さと一体になった気がしていました。