消しゴムから考えるアナログとデジタル


デジタル教育やデジタル機器で制作した美術作品、仮想空間の認識の広がりなど様々なデジタル化の進む現代において、消しゴムの意義は変化しているように思う。

デジタルで言う消しゴムとはペイントなどの一定のアプリケーションで使うツールであり、消しゴムのツールで選択した場所を消去できるというものであることが多いだろう。文章などを作成する際は消しゴムなどのツールを使うわけではなく、選択した文字を消去することができる。一方アナログで言う消しゴムとは一般的には鉛筆やシャープペンシルで書いた文章を消すために使い、美術ではデッサンやアイデアスケッチ、下書きなどに使用することが多い。また、アナログでの消しゴムは本当に全てを消去できるわけではない。必ず消した痕跡が残り、さらに消す力は自分の筋力であるので労力も必要である。

ここまでで考えるとデジタルの方が効率が良いことは明確で、アナログからデジタルに様々なことが移っていくことは理解できる。しかし、デジタルに移り変わっていく現代だからこそ、効率の悪いアナログの良さについて美術の視点で考えてみる。


デジタルではやり直しが何度でもきく。1手前の作業に戻ること、完全にまっさらな状態に戻す事がボタン1つで簡単に出来るのである。そこには前の作業の影響は何も無く、どれだけ行ったり来たりしたものでも完成したものには残らない。それは整頓されたミスのない美しさとも言えるが、人間の作ったものの美しさ以前にデジタル機器の印象を見る人に与えているのではないだろうか。

一方でアナログは1つ前の作業に戻るためには消しゴムが必要で、消したからと言って紙をまっさらな状態に戻すことは出来ず、そこには書いた痕跡が必ず残るのだ。さらに文章などで言う清書、美術での本番では勿論消しゴムでは消すことができない、その場で書いた全てが戻すことのできない結果となる。よってそこには何度も試行錯誤した結果や失敗しても戻すことができないから存在する緊張感、計算ではない不完全さが味として産まれると考える。効率性という点においては完全にデジタルが勝っているにも関わらず、アナログは消えていないのはこれらのことが人の心に影響を与えるからではないだろうか。しかし、デジタル機器に身近な世代が増え、よりデジタル化が進んでゆく現代ではアナログが減っていくこともまた明確である。



アナログとデジタルのどちらもが存在し、選択出来る現代だからこそ、そのどちらかを選んだ必然性が大切になるのではないか。効率がいいのはデジタルであるが、効率だけを求めて選んだツールとしてのデジタルではただ要素が減るだけになる恐れもあると考える。それは芸術としては簡素なものとなるかもしれない。それゆえ、効率だけでなくデジタルにならではの整然性などの特性を生かすこと選択の理由とし、制作することが大切なのではないだろうか。




また、完全に消去できる、といったデジタルでも消せないものもある。それはSNSでの投稿も当てはまると考える。文字の一つ一つは数字でできた情報であり、見た目ではまっさらにすることができるが、SNSは個人のもつ端末だけでなく世界中の端末と繋がったものであるからこそ完全に消去することはできない。SNSになった途端デジタル端末は自動計算機ではなくアナログのような完全には消せないものとなるのだ。そして、そのような整頓されていない不完全な人間らしさの溢れたものになるからこそSNSに人々は惹かれてしまうのではないだろうか。

しかしデジタル化によりそれによる問題はたくさん生じており、様々な対処方、教育法が考えられている。そこで私は大切なのは消せないことへの緊張感を持つことなのではないかと私は考える。書いたものは消せない、という感覚はデジタルで作業をしていては生まれない。だからこそ教育ではデジタル化にだけ重きを置くのではなく、アナログに触れる機会が大切であり、生み出したものは消せない美術や音楽といった芸術系の教科が重要なのではないだろうか。





痕跡から考える芸術と時間



美術作品とは総じてなにかの痕跡であると言えるのではないだろうか。例えば絵画は画家が絵の具を筆につけキャンバス上にのせていった痕跡である。また、最古の美術と言われる洞窟壁画などは有史以前の人間が残した痕跡である。それは写真やデザイン、映像においても言えることだ。これらは表現者が何らかの行いをし、それによって誕生した痕跡なのだと言える。

痕跡とは過去に何事かがあったことが分かるようなあとのことである。そこから痕跡は現在という時間軸において過去を想像するためのツールであり、過去を現在に再構築することができるものだと考えることができるのではないか。この考えのもと芸術作品について考えてみると、過去のどこかのタイミングで表現者によって生まれた痕跡である作品は現在という未来において他者(社会)に観測される。この状況においての芸術とは作品のみを指すのであろうか、生まれたものは他人に観測されることにより痕跡となり芸術と言えるものになるのかもしれない。




逆に、痕跡でない芸術も存在するのではないか。

それは例えば、ハプニングといったパフォーマンスや、歌、ダンスなどである。これらはなにかを作り未来へ遺すのではなく、『今』起きていることである。そこに存在するコンセプトは過去を振り返り生まれるものであったりするが、そのパフォーマンスは現在にのみ存在し見た人の記憶しか遺らない。よってこれらの芸術性は痕跡としてではなく、逆にその場にしか存在しない一瞬のものであるからこそ生まれるのであろう。

また、最古の美術としての洞窟壁画などがあるが、それらの痕跡としての美術が最古といわれるのは未来に遺っていくものであるからであり、実際は現代で見られるような痕跡でないパフォーマンスとしての芸術も多く存在しているのだろう。人々の心が動かされるものは物だけでないことは明らかであり、なんならパフォーマンスに心を動かされるほうが一般的に存在するのではないか。




そして、それらの痕跡でない芸術が認識されやすくなったのは記録の技術の発展によるものが大きいと考える。私たちがパフォーマンスの芸術だと考えているものの多くは実際にその場で目にしたものではない事が多いのではないだろうか。それは例えば映像であったり、cdであったりに記録されたものから得たものであることも多いだろう。

それらの技術は口語、文章、絵などによってのみ伝えられていた昔に比べ格段に進歩しているといえる。芸術といえば痕跡としてのものがほとんどであり、音楽においても楽譜または歴史を大切にする意識は『今』を記録するツールの少なさからも生まれているのではないだろうか。それらの進歩により、現代の人々は過去よりも『今』にフォーカスを向けることが増えていると考えることもできるのではないか。




それらに対してデザインについて考えてみると、デザインは表現者が生み出した痕跡であるが、その相手は未来ではなく、『今』の人々であるという特殊さがあるのではないか。絵画などが表現者の表現したいものを表現し、後にそれを人々が鑑賞するという長いスパンでのものであるのに対し、デザインは依頼者がおり、その依頼者の要望を叶えるための制作がありその対象者は『今』の人々である必要がある。これらから、デザインは痕跡ではあるが、『今』にある必要がある、という特殊さが見えてくる。