100歳を越えるお婆さまが

近頃「はやくお迎えが来ないかな」と、

しきりに言うようになった。



その時には心身ともに健康で、普通食も食べられ、トイレにも自分で行かれていた。



しかし「早く逝きたい、早く逝きたい」と言うようになって1〜2ヶ月で、急に体力がなくなり、

今まで全て自立されていた方が

あっという間に寝たきりとなった。



年齢も年齢だけれど、

病は気からだなと、思わずにはいられなかった。



責めているわけでもないけれど、

こういう人は実際多いのだろうなと思った。



なんのために命があるのか、

自分なりの答えがないと

人生はただ時間をこなすだけの、

死を待つだけの時間になってしまう。



少し前に飛び込み事故のニュースを耳にしたが

人生に絶望し死を望むのは、

20代でも100代でも同じ原因のように思えた。


自分の人生との間にコミュニケーションを感じていないからだと思う。







少し前に「それでも人生にYESと言う」という本を読んだ。あの「夜と霧」を書いたVEフランクルの著書だ。フランクルはあのアウシュビッツから生還した、精神科医で心理学者。ロゴセラピー「生の意味」を見出すことを援助することで心の病を癒す心理療法の第一人者だ。


私が本書の真意を掴んでいるとしたならば、

彼は、アウシュビッツにいたあの時さえ人生に意味があったと言っていた。むしろ、意味があると考えることが彼の存在を助けていた。


彼曰く人生は自分達に常に問いかけており、

私たちが「人生には一体なんの意味があるのか」と、問いかけるような立場にはないとのこと。

むしろ、問いかけられているのだ、と書いていた。




究極の体験の中、何かを悟った人の言葉には真実を感じる。その真実が私たちを感動させる。





私も彼の実存分析的考え方が大好きだ。

家庭内不和が起こった時、

心身の不調で苦しんだ時、

人間関係でストレスを感じた時、



いつも人生は私に問いかけているのを感じる。

問いに夢中に答えている時こそ

今を生きていることを感じる。




100歳になっても生きる意味を感じないなんて、そんな現代の当然の風潮に少し寂しさを感じた。






フランクルの言葉に確かこんなのがあった。

あなたがどんなに人生に絶望しても、

人生はあなたに絶望しない。


私も、そう思う。



そしてまた、思う。

この出会いを通して、

私の人生は、私に何を問いかけているのだろう。


私のどんな側面に気づいて欲しいのだろう。