なぜ「都民ファースト」は良くて「日本人ファースト」はダメなのか?言葉の背景を探る

 

「都民ファーストの会」という政党名は広く受け入れられているのに、もし「日本人ファースト」という政党が現れたら、おそらく多くの批判にさらされるでしょう。

なぜ、どちらも「自分たちの集団を第一に考える」という意味に聞こえるのに、ここまで受け止められ方が違うのでしょうか?

このブログでは、「都民ファースト」と「日本人ファースト」という言葉が持つ、それぞれの背景や文脈の違いを掘り下げ、なぜ一方は許容され、もう一方は強い警戒感をもって語られるのか、その理由を探っていきます。

 

「都民ファースト」が意味するもの:地方自治の視点

 

まず、「都民ファースト」という言葉がどのような文脈で使われているかを見ていきましょう。

この言葉を有名にしたのは、小池百合子都知事が率いる地域政党「都民ファーストの会」です。このスローガンが意味するのは、**「東京都の行政サービスや政策決定において、都民の利益を最優先に考えます」**ということです。

ここでのポイントは、以下の2点です。

  1. 対象が明確であること: 「都民」とは、東京都に住み、税金を納めている住民を指します。これは行政サービスの対象として非常に明確な定義です。

  2. 地方自治の文脈であること: 都道府県や市町村といった地方自治体は、その地域の住民福祉の向上のために存在します。そのため、「住民を第一に考える」という理念は、地方自治の根本的な考え方と一致しており、自然なものとして受け入れられます。

「県民ファースト」や「市民ファースト」といった言葉が当たり前に使われるように、「都民ファースト」もまた、行政サービスの責任の範囲を明確にするための、実務的で分かりやすいスローガンなのです。

 

「日本人ファースト」が喚起するもの:国際政治と歴史の文脈

 

一方で、「日本人ファースト」という言葉は、なぜ強い反発や懸念を招くのでしょうか。それは、この言葉が地方自治の文脈とは全く異なる、国際政治や歴史的な文脈と強く結びつけて捉えられるからです。

 

「アメリカ・ファースト」との類似性

 

「〇〇ファースト」という言葉を国際的に広めたのは、ドナルド・トランプ前米大統領が掲げた**「アメリカ・ファースト(America First)」**というスローガンです。

これは「自国の利益を最優先する」という政策方針を示す言葉でしたが、国際社会からは、以下のような**「自国第一主義」**の象徴として受け止められました。

  • 国際協調よりも、自国の利益を優先する姿勢

  • 他国との貿易摩擦や対立をいとわない保護主義

  • 移民や他国籍の人々に対する排他的な態度

この「アメリカ・ファースト」が持つ排外主義的なイメージが非常に強いため、「日本人ファースト」という言葉も、**「日本さえ良ければ他国はどうなってもいい」「日本国内の外国人を排斥する」**といった危険な思想と結びつけられやすいのです。

 

「日本人」という言葉の多義性と危うさ

 

「都民」が居住地に基づく明確な定義であるのに対し、「日本人」という言葉は、国籍だけでなく、民族や文化、血統といった多様な意味合いを含みます。

そのため、「日本人を第一に」と掲げた場合、以下のような問いが必然的に生まれます。

  • 「日本人」とは誰を指すのか?

  • 日本国籍を持つ外国ルーツの人は含まれるのか?

  • 日本に住み、社会に貢献している永住者はどうなるのか?

「日本人ファースト」というスローガンは、「純粋な日本人」といった曖昧で危険な概念に基づき、特定のルーツを持つ人々を社会から排除しようとする動きにつながりかねない、という懸念を生んでしまうのです。歴史を振り返れば、このような「国民」や「民族」を純化しようとする思想が、深刻な対立や悲劇を生んだ例は少なくありません。

 

まとめ:言葉が置かれている「土俵」が違う

 

「都民ファースト」と「日本人ファースト」の受け止められ方が全く違うのは、それぞれの言葉が置かれている「土俵」が根本的に異なるからです。

  • 都民ファースト: 「地方自治」という土俵の上で、行政サービスの対象者を明確にするための言葉。

  • 日本人ファースト: 「国際政治」や「歴史」という土俵の上で、排外的なナショナリズムや自国第一主義と結びつけて解釈されやすい言葉。

私たちは、言葉の表面的な意味だけでなく、その言葉がどのような文脈で語られ、どのような歴史的背景を背負っているのかを理解する必要があります。

なぜ「日本人ファースト」が許されないのか。それは、この言葉が持つ排他性や、過去の歴史が示す危険性を、多くの人々が直感的に感じ取るからだと言えるでしょう。大切なのは、誰かを排除するのではなく、多様な人々が共生できる社会をどう築いていくか、という視点ではないでしょうか。