戦中派・父の俳句集余韻                     | ハイテク・アニミズム

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戦中派・父の俳句集余韻
                  
                                     土井敏喜

 
 (背景)
 秋山實(巳乃流)氏との出会いは下北沢のキッチン。先ずは「君は本を読んでいないし、文章も書けない」との罵倒だった。それが同人誌「NEO APRES GUERRE」(新戦後)を創刊した實氏との付き合いの始まりだ。私は、そうして編集実務と詩を書き初めたのだ。小説家になると思っていた實氏が、まさかの俳人になったのは自然の摂理としか思えない。
 また、私が内のオカミ(神)さんと結婚した頃が、恐らく秋山素子氏と竜子との交流の始まりだろう。
 これが、『まがたま』に今号から我々が会員となった背景である。

 
『銀漢』(父・章二の「句集名」)
   銀漢のこの静けさの齢なり  章二
 七夕の織姫と彦星との関係が、当時「産業組合」の同僚だった母・芳実(よしみ)を連想させる句でもある。
 父は広島商業五年生の時に互選句会に足を踏み入れた。悩みの時機を経て、芭蕉の「己を責めて造化の神の帰一」精神に着目するに至る。
 父の句集は、昭和17年、18年、19年20年(空白)、21年の間の俳句である。「自分の俳句は今後にある。昭和18年(20歳)8月以降の句にこそ私の心の生成過程を凝視すべきだ」と、覚書に記していた。まさに、『銀漢』の中心がその頃だ。因みに、銀漢の句を私が高校生の頃に見せてくれたが、反応が鈍かった。秋山實氏とは反対に文学の道をすすめる事はなかった。
 父は、19年(21歳)の国民徴用令による出頭命令を受けて応召した。
   早春の北斗たばしり東歌   章二
この年、母が既に父(私の祖父)の許しを得ていたのだろう。小倉に「おはぎ」を持参して慰問した。会うや否や空襲警報で出会いは瞬時で別離となった。(この19年は日本全土の都市が、米軍により空襲に晒されることになった頃だ)。
 しかし、同年には招集解除になった。
   征きし日の書架潔らかや青葉光  章二
恐らく父は心臓病で乙種合格なので、応招も遅れ解除されたのだろう。
 ところで、句集以外に18年に同い歳の詩人のSK氏との「交換ノート」が二冊あった。二冊の二冊目を父が保有した。句集では判明しない「詩と俳句と生死の芸術論」に満ちている。核心は、「昭和の防人精神お、生きる喜び」とが混在していることだ。SK氏は、18年の徴兵検査で甲種合格。次の一句後に応招か。
   慄然とこの実は天にゆれもせず  章二
また、次の一句もSK氏に強く伝えている。
   鰯雲銃口ひしめき征くが如し  章二

 『寒雷』(加藤楸邨の結社名)
 楸邨の「寒雷集」に句選が載るらしく、『銀漢』には選句された句に○印が付けられている。殆どを紹介できず忸怩たる思いが残る。
 楸邨の俳句観を「(日常生活の)深淵の中から真に自分が見いだしたものを掴み出したかった。日常の常識とが不安との底に黙々と動いている自分の真の姿を掘り出したかった。そして、それから鬱たる気息の如く俳句を充填したかった。巧いとか拙いとかを離れて、そういうギクリとするものを射とめる目を欲した」と、父は交換ノートに書き抜き、「心を打つ重量感」を感じたと記している。
因に、父と同じ頃に優秀なのは金子兜太だと聞いていた。兜太は、「自分のことしか考えていない。弟子を指導することもしない楸邨は、とても大物だから、集まる人に熱気があった」と記す。父も、楸邨の熱気の息吹きに触れたのだ。
 ところで、父の楸邨観と対比してみると、江戸川乱歩が「一人の芭蕉の問題」は、「市井俗人の弄び」に過ぎなかった俳句を「悲壮なる気迫と全身全霊をかけての苦闘によって遂に最高至上の芸術」だと記したことだ。つまり、「もう一人の俳人の問題」だ。例えば、秋山巳乃流かもしれないということだ。
(私は、全ての分野での芸術感覚とは、大衆が主体で選べる時代の到来を意味することだ、と思っている)。

 『我が恋は』
 父の句集の21年以降の空白頁の最後に、後に波郷の二代目になる、石塚友二による直筆の句が書かれている。野趣満々の友二ならではの「恋」という文字が驚きだ。父の句集には無い。
   我が恋は失せぬ新樹の夜の雨   石塚友二

 20年8月6日。母は勤労動員先の工場へ掃除当番で早めに到着。九死に一生を得た。
 父は再応招先の習志野での見習士官訓練場から、母の実家に近い駅に降り軍服のまま母と再会。家には被爆避難者が溢れていた。その家から、新・農協づくりに通勤激務をしたのだ。
 20年12月に父と母が結婚し、私が小学校に入る頃に市内の家に移り住む頃の余韻が今でもある。

 (父が俳句を止めた理由を、機会が得られれば『戦後と平和と俳句と』を書きたい)。