「異化」と言う考え方
大江健三郎さんって、物書きというより、学者みたいなところがありましたが、
昔、この人が「異化」と言う言葉を使っていたのが、心の隅に残っていたので、
気まぐれにネットで調べたら、これはちゃんとした文学理論だった。
Wikipediaから移すと、
異化(いか、 ロシア語: остранение, ostranenie)は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。知覚の「自動化」を避けるためのものである。ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーによって概念化された。
異化とは、日常的言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす芸術の一手法だと要約できる。つまり、しばしば例に引かれるように「石ころを石ころらしくする」ためである。いわば思考の節約を旨とする、理解のしやすさ、平易さが前提となった日常的言語とは異なり、芸術に求められる詩的言語は、その知覚を困難にし、認識の過程を長引かせることを第一義とする。「芸術にあっては知覚のプロセスそのものが目的 」であるからである。またそれによって「手法」(形式)を前景化させることが可能になる。
初期の大江健三郎の小説に出てくる余りにグロテスクな性描写も、「異化」なんでしょうかね?
私の大好きな北野武の一連の活動も、「異化」として捉えることができるのか?(難しいことはようわからん。)
北野武の映画「座頭市」(2003年)が公開されて、ベネチアで賞を貰った時、名だたる日本の時代劇の重鎮(山城新伍、千葉真一とか)が、この映画を非常に批判した。ステレオタイプの塊である日本の時代劇から逸脱したのが許せなかったんだろうと思う。私は、この映画大好き。
特に、日本人はステレオタイプを好む傾向があると思う。
町に、公園が出来たら「ふれあい広場」だし、上手なダンスを形容する言葉は、いつも「キレッキレッ」。怒るときは、「ブチギレ」。映画の題名は「愛と青春の○○」
TVドラマの水戸黄門シリーズで、最後に黄門さまが印籠を出さない回を放送したら、視聴者から随分と苦情が来たんだそうな。
本当に宗教を信じている人は、有名な高僧がバナナの皮で滑って転んだら、ケガを心配するだろうけど、「高僧」なんて胡散臭いと思っている人なら、爆笑するはず。これも、「異化」?
誰か、詳しく説明してくだされ~