実は俳句が嫌いなんです(;´Д`)
ブロ友さんに、「連歌」(連句?)へのお誘いを頂いて、結局お断りしたんですが、
(気を悪くされたら、ごめんなさい。毎度のことで^^;)
私は、実は現代の俳句とか短歌というものが嫌いなんです。
これは、桑原武夫(1904~1988)という仏文学者の「第二芸術―現代俳句について―」という文章に、もろに影響を受けております。(←以前にも書いたことで、重複しますが。)
第二次世界大戦直後、桑原武夫(くわばらたけお)が提起した現代俳句否定論。1946年(昭和21)『世界』11月号に「第二芸術――現代俳句について」の題で発表。47年白日書院刊『現代日本文化の反省』、52年河出書房刊『第二芸術論』に所収。桑原は、現代の名家と思われる10人の俳人の作品を一句ずつと、それに無名または半無名の句を五つ混ぜ合わせ、イギリスの批評家リチャーズの行ったような実験を試み、現代俳句は、作者の名前を消してしまえば優劣の判断がつきがたいということで、現代俳句の芸術品としての未完結性すなわち脆弱(ぜいじゃく)性をみた。彼によると、現代俳句は、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしいもので、「芸術」というより「芸」であり、しいて芸術の名を要求するなら「第二芸術」とよぶべきだという。桑原はこの第二芸術論を短歌や私小説にまで適用させ、日本の近代文化になお残る封建的残滓(ざんし)を手厳しく批判した。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
短詩型文学論。桑原武夫の『第二芸術』 (1946) の現代俳句批判に端を発した,第2次世界大戦後の一時期における短詩型文学否定論の総称。近代自我の確立や人間性の回復を急ぐ時代の動向を反映して,短歌や俳句の日本的抒情,表現世界の狭小,あるいは歌壇,俳壇の根底をなす伝統的な結社性,などを文芸様式の前近代性として退け,短詩型文学を小説や戯曲に比してより質の落ちる遊戯的な「第二芸術」であるとした論。短歌に対しては小田切秀雄,臼井吉見らの否定論が出現した。西欧市民文学を理念とする性急な伝統批判という性格が強く,時代思想の流行性を印象づけただけで,短歌や俳句の本質をゆるがすにはいたらなかった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
なかなか本音を言ってはいけない日本社会で、桑原武夫さんの論調は私には痛快に思えました。おそらく、第二次世界大戦の惨敗で、「日本的なもの」を否定する風潮が強かったこの時期だからこそ言えたんだと思う。(黒澤明が、自分の作家性を明確に表現しだしたのも、この時期。) 「世間」が潰れて、ちょっと「言論の自由」があったんでしょうね~
だって、俳句なんて、だれでも作れるでしょ?
豆腐食い ふと見渡して 黙り込む
高校生の時に私が作った俳句(???) 季語がないかも^^;
これを、著名な俳人が作った名作だとか言われたら、
「そうかいな~」と騙される人もいるかもしれない~(笑)
俳句にしろ、短歌にしろ、カラオケにしろ、「誰でも、芸術家になれる」と言う風潮が私は大嫌い。
芸術なんて、特別な才能に恵まれた人のみが創作できる特権であって、
凡人は黙って鑑賞すればいいのです!
アイドル歌手の下手くそな歌なんて、聞きたくない!
桑原武夫さんの願い虚しく、日本の戦後は「高度大衆社会」(西部邁)になってしまった。
岸田秀が言うには「嫉妬の時代」。
私って、群れるのが嫌いなんです。
※桑原武夫さんが、「日本的なもの」の批判の急先鋒として俳句を取り上げたは、戦時中に真っ先に軍部の太鼓持ちを買って出たのが、俳句やら短歌の結社だったからだそうです。