以前、評価値による戦型選択について、少し書いてみました。
結論としては、評価値を神格化するならば、先手居飛車が最強で、後手は2手目にして指す手がないという身も蓋もない話になりました。
アマチュア的には実戦的な勝ちやすさが重要なので、振り飛車が有力な選択肢の1つになります。
しかし、プロのトップレベルでは、もはやAIの導く最善手を指せなければ勝てない将棋になりつつあります。
藤井八冠の指し手の数々は、将棋の真理を地で行くような指し方が人間にもある程度は可能だという事を証明しています。
彼にできるという事は、他の人にもできる可能性があるという事です。そうした真理を突き詰め合うような、真っ向勝負で藤井八冠に勝とうとする場合、プロの仕事が「勝つこと」である以上、将棋AIによって結論が出た戦型、あるいは不利だとわかっている戦型は淘汰されるのが普通です。
これは、「将棋の寿命」を縮めるだけでなく「多様性」をも消す事に繋がるでしょう。
ただ、冷たい見方をすれば、将棋という1つのゲームがそういうロジックを突き詰めるだけのゲームになる事は、大した問題ではないかもしれません。
しかし、もっと大きな問題として、「人生」というゲームすら、AIによって最善手が示されるような時代が遠からず来るかもしれません。
自分は、その事が物凄く怖いです。
そういう状況になった時、人間はどう生きるのでしょうか。
AIが示す最善手にただ従って生きる世の中。
その最善手と違う行動を取れば、簡単に敗北し、悪者にまでされてしまう社会?ですか?
やってらんねーですね……。
なんというか、みんな藤井八冠をもてはやしますけど、自分は彼の勝ち方を見ると、そうした未来を予感してしまうのです。
おそらく、彼に勝つような若手もいずれ出てくるでしょうが、その人も真理を突き詰めるようなタイプなのでしょうか。
「人間らしさ」とか「面白さ」みたいな感覚は、無駄な物、不要な物として切り捨てられる時代でしょうか。永瀬九段とかは、既にそんな感じですが。
怖いです。とにかく。
藤井八冠を批判するつもりは全くありません。純粋に凄いなと思うし、かっこいいなとも思います。ぶっちゃけファンですw
ただ、大きな時代の流れとして、今後の社会全体がAIに依存していくならば、その(自分にとって)絶望的な未来を、将棋界において先取りして体現しているような彼の姿を見ていると、とにかく怖くなります。
しかも、昨今の日本人のメンタルを観察していると、そうした最善を追究する世界に対して、案外みんな拒否感が少ないのかな、とも思うのです。
ひょっとして、自分の方がおかしな感覚で、既に老害的なのでしょうか。
例えば、日本人の多くが未だにマスクを外さない事について。
自分の会社では、まだマスクをしている人の方が多数派です。今年入った(他部署の)新入社員の素顔を、自分はまだ見たことがありません。
これが異常だという感覚は、本当に間違っているのでしょうか?
感染確率を少しでも下げる事ができるのだから、マスクをした方がいいとなるのは、理屈的にはギリギリわかります。
しかし、そういう部分的な理屈に従う姿勢が、AIという機械から見たロジックに従う未来と重ねてしまうのです。
また、昨今では、SNSの何気ない発言についても、鬼のような批判が集まります。
この「少しの罪も許さない」という潔癖な感じが、イメージ的には、将棋AIの最善手を追求していくプロ棋士と重なってしまうのです。
テレビやラジオにしても、「放送事故は許されない」だとか「放送倫理を守りなさい」と色々言われて、当たり障りのない番組しか作れなくなっています。
ついでにネットの台頭もあり、「オワコン」とか誹謗されるわけですけど、これも振り飛車の現状と重ねてしまいます(被害妄想もあるでしょうが)。
今回は、自分が今抱いている、今後の人間の未来に対する不安を率直に書いてみました。
自分は多分、振り飛車という戦法がなければ、将棋を続けていないというくらい、将棋が好きというより振り飛車が好きな人間です。将棋の真理なんかどうでもよくて、そういうのを追究したかったら、数学のミレニアム問題にでも挑戦しますw
ですが、アマチュアでも最近は居飛車党が多いらしいです。
藤井八冠の影響で、みんなが居飛車好きになって真理を追究し出したら、もちろん悉く撃破するのを目指しますw
ただ、そういう自分が好きな戦法が虐げられる状況って、なんか寂しいし、つまんないだろうなと思うのです。