GW入ったね
去年は北海道を旅行していた。今年は特になし
冬物片付けて、近場をブラブラして、美味しいもの食べて、とゆっくり過ごそうと思っております。
昨日のニュース7、見逃しで見ました。
NHKとあって落ち着いて話しやすそうな感じだったね
いろいろ話した中での切り抜きだろうから本人が使って欲しい場面だったかはわからないけど。
このブログは、彼の動画やそこから垣間見れる彼の思考や方向性を探ることを主テーマとしているんだけど、その彼がちょっとづつ範囲を広げていっている。
メインのピアノ関連以外にも太鼓であったりVlogであったりコラボであったり
リスナー規模の拡大に伴い諸々トラブルもありーの、彼自身の社会的影響力も大きくなりーので、「対リスナー」「界隈の発展」だったものが「社会」へと言及範囲が広がりつつある
このブログもそれに追従し、「社会」問題に対して踏み込まざる負えなくなった(勝手に)
社会問題を取り上げるに当たり、前提として、世間の判断は正しいという思想を持っている。情報源に偏りがなければ、良い悪いに関しては世論に大きな分散はない(「選択肢」は別)。多くの人が妥当な判断ができる。それが世間。
で、今までいろいろブログ書いてきたことは、どちらかというとその「世間」の感覚から外れたもの、声のデカいマイノリティに対して、標準的な一般人から見える素直な「違和感」を発信したものが多かったかと思う。
「社会」という基盤があって、人はその構成要員であるという構図
その構図を「外」から客観的に見えているかどうかが一つ分かれ道。
時に、自分がいてその周りに社会や他の人がいる、という自分の目で直接見えるものがすべてという人がいる。
「外」から見るか「自分の目」で見るか、その2つの見え方の違いによって発生するズレが意見の相違を生むと思っている
社会の常識が通じない理由
今回ストピ問題に関して、「ルール、マナーを設定しなければいけないという状況」をあざ笑う意見がちらほら聞こえる。これは「世間一般的に考えて」どういうふるまいをすべきかというのは、常識的にわかるでしょ、という意見
そう。この意見をする人は「常識」がない人がいるということが理解できない
グレーゾーンはどのケースでも存在するが、明らかに「白」か「黒」かは”普通”わかるよね、ということ
実際は、その「常識」がない人がいるわけで、それがなぜかというと、その人は「社会」を、教育しかり経験を通じて知見化してこなかったからなんだろう。
子供が駅や商業施設内を走り回るという行為は「社会の常識」がわかっていないから発生する。それが大人になっても「同レベル」のことをする人が少なからず存在するとういこと。
これは大元は「外」からの目と「自分」の目と、見ているものが違うがために起こること。見ているものが違うと良し悪しの「常識」が合わない。
だから詐欺はなくならない
自分の主張の妥当性を示したいがために物事を「歪曲解釈」する人がいる
これは例えば、前記事で書いた「営利目的禁止違反」のこと
すべての事象を事細かく書いていないことを逆手に利用する
こんな人いるの?冗談でしょって思ったけど、同意見のヤフコメの数にビビったわ。世の中詐欺がなくならない理由がここにある。こういう「もっともらしい」、一見「それっぽい」ことを整然と言うやつがいる。
これも自分視点なんだよな。運営者を外から見たら(見る気があったら)、違うなと気づくはず。普通は
基本は性善説だと思うよ、世の中の多くは。でもそうでない可能性も微小ながらあり、それが巧妙に潜んでる。
目的を達するために手段を選ばない。「白い」ものを「黒い」と言い切る。そういったウソに引っ掛からないためには、「違和感」を感じるセンスは持っておかなければならない。そしてその「違和感」を突き止める、自分をごまかさないことへの労力はかけるべきだと思う。
ちょっと話が変わって、元リスナー?お気持ち地縛霊?による「彼への反発、ネガキャン、暴言」に関しても構図的には同じだと思っている。「社会」という母集団が「リスナー」という母集団になっただけ。
その人たちは、どれだけの彼のリスナーが見えてる?彼がどこまで各リスナーに気を遣う、配慮したら満足する?全リスナーにとって妥当な線引きってできるの?これだけの規模のリスナーに対し。
社会、リスナー全母集団の利益より、自分が引っかかる小さな事象にフォーカスし、そして「彼への反発、、、」へと発展する。
自分本位、これも「外」からの目ではなく「自分」の目の話ですわ
で、結論としては
誰もが皆「外」の目が持てると社会として妥当な判断でき、トラブル少ない世の中になりますね、ということ。
ストピに限って言えば多少の外れ値、ルール違反・マナー違反は全体にして極僅か。起こったとしても、それが加速するわけでも、致命的な被害をもたらすわけではない。よって最初はハードルを下げ、世間が歩み寄り、寛容性、受容性で対処できるとよかったのかなと思う
寛容性、受容性ときたので、ついでにマナーやルールに関して
日本人は特に、マナーやルールに厳しい。
もちろんそれが社会、多くの人に利をもたらす、もしくは不利益を回避するための合理的なことだから。
その反面、自己犠牲や我慢を強いられる窮屈なところもある。そして、自分や他の人が我慢しているのにそれをしらっと「破る」人のことを、抑制反動もあり過剰に攻撃する傾向にあると思う。
皆が「常識人」であることを強要。度を超すと、「ネズミ一匹、、」という発想に発展する。
社会にとって少しでも「負」となるものを徹底排除する脅迫観念に取りつかれる危険性。昨今の「マナー警察」やネット上の「非難コメント」を見ると、正義感への心酔を感じる。多くの人が守っているからこそ、そういった外れ値が目立ち、たたきやすいという側面もある
「社会」をもう少し幅広く、点(その事象)ではなく面(全体像)でみる、短期ではなく長期的に考える、そういった大きな視点や寛容性、ビジョンがあると、対立を避け緩やかに理想へと近づけていくことができるんじゃないかなと思ったりする
寛容性と正義感
自分は人に対し寛容性が高い人が好きです。そういった世の中であるといいなと思っています。それがゆえに寛容性の低い人に対しつい矛先を向けてしまう傾向あり。
マナーに極度にうるさい人であったり、活動者に対して難癖をつける人であったり
自己分析的にはそう見ております。はい。
正義感は「負」を叩きのめすのに使うのではなく、「プラス」面を後押しする力として使えるといいですね
それにより、多くの人が自然にクォリティオブライフを高められる、そんな世であってほしいかな
それが言いたいがために、グダグダと連ねておりました。
個人的にはマナーが悪い人以上にマナー警察やそれもどきはキライです。配信者も望んでいない、誰の役にも立っていない。もし、そこに善意があるのであれば、配信者が望むやり方、喜ぶ策を提案してください。ッテネ
いかんな。今日は気分がいいので軽く書こうと思っていたのに、全然ふんわりしてないわ。