前記事でクラッシックを聞いてみたという話をしたが、主にピアノ演奏、ショパンコンクールとか、協奏曲、独奏などなど。

古いもの、例えばラフマニノフの自作自演もYoutubeに上がっていてそれも見てみた。

 

専門的には全く分からないけど、技術?楽譜通りに弾けるかというのは今も昔も変わっていないように思う。ただ表現方法というのかな、「蜜蜂と遠雷」の作者の言葉を借りると”情報量”、丁寧さ?完成度?が現代の方が格段に高いように思う。

 

 

 

クラッシックを聞き始めたついでに、「クラッシック音楽の歴史」という初心者向けの本を1冊読んでみた。初心者向けという事だけあって薄く広く、400年前からのクラッシックの歴史をさらーっとなめた本。ざっと全体像をつかむにはちょうどいい。

 

 

クラッシック音楽の”位置づけ”

西洋音楽の源流はキリスト教会、王侯貴族の宮廷、歌劇場などいくつかある。教会は布教のために音楽を必要とし、宮廷は儀式と娯楽のために必要とし、歌劇場も娯楽のものであった。やがて市民階級の台頭と出版技術の発達により、楽譜出版がビジネスとして確立する。しかし作曲家にとっては楽譜出版が得る収入は二次的のものだった。

布教、儀式から娯楽へ、貴族から庶民へと広がっていった。

 

 

演奏者≠作曲者の出現

音楽は基本的に自作自演だった。すでにこの世にいない人の曲など誰も演奏しなかったし、聴こうともしなかったのだ。しかし、ベートーヴェン以降は違った。ベートーヴェンの曲は彼の死後も演奏されたのである。当然、本人はいないので、誰かが指揮をしなければならなくなった。ベートーヴェンの指揮者として有名なのはワーグナーである。彼によって、それまでは失敗作とされていた第九の名曲だったことが再発見されたのである。

これが19世紀になってかららしいので約200年前から。人が作った曲を演奏し始めたのが。200年”も”というべきなのか、”たった”200年というのかわからない。
 

 

クラッシック音楽のビジネス展開

十九世紀の終わりになると、特にアメリカで楽譜出版がビジネスとして大きくなり「売ることを目的とした曲」が作られるようになる。そして出版社はその曲を売るためにプロモーションをかけて、大々的に宣伝する。二十世紀に入り、レコードと放送が産業化されると、ますます「売ることを目的とした音楽」は必要とされ、音楽産業は巨大ビジネスとなっていく。

19世紀の終わりに「楽譜出版」がビジネス化され、20世紀に入り「レコードと放送」が産業化。

 

 

約200年前から作曲家以外の人が演奏するようになり、約150年前から楽譜出版、約100年前からレコードと放送が産業化。これによりいわゆる楽譜を演奏する”演奏家”が台頭する。時期を同じくして国際コンクールが開催されるようになり(コンクールの最古を調べてみたら、ピアノの国際コンクールではショパンコンクールが最も古く1927年が初回、約100年前)、”演奏家”の中で優劣を競うようになる。

ってことか

 

コンクールが出現してから約100年、演奏家の進化はこれが起点で、世界情勢の変化、インターネットによる情報化で急激に発展してきているんだろうね。

 

 

 

戻って、

ショパンコンクール、Youtubeチャンネルで再生リストで2次予選を見てみたんだけど、ほんとにさっぱりわからんww

おそらく、”減点”ポイントはあるんだろうけど、”加算”ポイントは不明、明確なものはないんだろう。完全に勝手な憶測だけど

 

 

”減点”に気を付けるのは最低限(だから素人には気が付かない)、差をつけるためにはどのように個性を出し、印象付けるか、人の繊細な心の奥にある琴線をかすめるか。

細部へのこだわり。それが、多大な時間、労力を要する要因なんだろう。ここに至る以前、大多数がスタートラインにも立てないんだろうが

 

 

クラッシックが難解である理由

クラッシック音楽が「難解」「とっつきにくい」といわれる理由の一つが何を描いているかわからないことにある。これは当然で歌やオペラ以外の音楽はもともと「何かを描いた音楽」ではないのだ。作曲家たちは「ただ

書いた」だけなのだ。

という事らしい。

クラッシックが「ただ書いた」だけ(この著者によると)だとすると、それを膨らます?情報量を増やすのはそりゃ至難の業だわ。わからないないモノを”良い!”と持っていくための技術。

 

 

ポピュラーミュージックが人気なのは”わかりやすさ”なんだろう。聞いて楽しむだけだったら特に前知識なしでOK。歌であったり、リズムであったり、メロディであったりが予め乗りやすい(受け入れやすい)”作り”になっている。

 

 

 

それにしても、

これは、「一握りの天才によって歴史は作られる」という英雄史観に基づいているからに他ならない。

まさにコレ。

10歳未満で演奏家としてデビュー、とか、12歳でオペラを作曲、12歳で四重奏曲を作曲、とか。大抵は手ほどきは親や親せきから受けているが、揃いもそろって天才、神童

そんな中、変わり種としてはシューマンとチャイコフスキー。

どちらも専門は法律。シューマンは法律の大学に進み、それまでに音楽の勉強は作曲も楽器の演奏もしていない。二十歳を過ぎてからピアノを習い始めるも演奏家は断念しピアノ曲を中心に作曲家として活動。

チャイコフスキーは、法律学校に通った後、法務省に勤務。その4年後にペテルブルグ音楽院に入学し法務省を退職。その3年後にモスクワの音楽院に講師として赴任。

 

頭がこんがらがるわ。

神童も、二十歳過ぎてから音楽始めるのも。いろんな経緯アリ

世の中にはとんでもな天才がいてそういう人が歴史に名を残し続けるのね、って。

 

 

 

こうやって一握りの天才によって400年にわたって生み出されてきたクラッシック界。

特にここ100年、楽譜、コンクール、レコードにより、一気に「娯楽」として急激に普及、庶民・一般人誰でもが手に届く娯楽になった。

 

 

クラッシック音楽が普及する一方、近代化により娯楽の「幅」も広がった。音楽の中でも市場性が高いPOPS、音楽以外にもスポーツ観戦、演劇、映画鑑賞、TVやYoutube、いくらでも「娯楽」がある。それが技術的興行的な整備により、より広くより深く拡張を続けている。

 

 

そんな中で市場を確保するためには、一部の選ばれし「天才」の存在は欠かせないのかもしれない。クラッシックに限らず

新しければ何でもいいというわけではない。市場から受け入れられなければ「娯楽」とはならない。娯楽を常に”今”より深化させ、インプリし、支持を集め続ける。

前例無き新しいアイデアを生み出し続ける。それでも歴史に名を遺すのは天才の中でも更に絞られた極々一部の人達。狭き門

「娯楽」は人々に楽しさと喜びを与える夢ある商売である一方、プレイヤの”過酷さ”は増す一方。それを易々と享受させてもらっている身としては、感謝と応援しかない。

 

 

 

 

そして、いよいよです。

 

彼の音楽が「フルオケ」、「新曲協奏曲8分」、「完全にクラッシック」

これ以上のパワーワードはないっしょ、、

今回、たまたまそういった小説を読み、たまたまクラッシックを少しさらっていた。来週を意識していたわけではない。いやーそれも相まってこの高揚感、言葉にならない

 

ここにも、娯楽提供に挑んているエンターテイナーが一人

彼のオリジンの一つであるクラッシックをどう調理するのか

一部の選ばれし「天才」をしかと見届けてきます