12月か。今更ながら気づく。

1年早いな。ぼーっとしているとあっという間に人生終わるわ

ぶるぶる、いかんいかん

 

 

今週は2本。久々にPチャンにもアップされ2回楽しませてもらった

 

第五人格メドレー、初めて聞いた

また新たな音楽を彼から知った

ゲーム音楽って独特な雰囲気がある

ゲームの世界観を表現しているからストーリー性も感じる

彼が好きなのは音ゲーでジャンル違いかもしれないけどなんでもこなす。さすがっす

tweetでの反応も好評、また違う界隈の人が反応していて。狙い通り

いやー、これも”有名人”だからこその反応よ

誰?ではなくちゃんと認知度ある”有名人”が実写版を演じたからこそ、その界隈の人が沸いた

ドンピシャだったと思うわ

 

ウ”ィ”エ”もだったけど、こういった雰囲気ある不思議な曲の表現力、演奏力、引き込まれる。最高

 

 

ヤンキー、こっちは完全にエンタメに徹している

伏線アリ、自虐アリ、笑いあり、凝ってる

ここでおっと思ったのは、おばあちゃんとの絡み

あれはメッセージ性ある

電車で並んで座って30分一緒に移動するって、驚いた人いるんじゃない

女性高齢者を嫌っている、遠ざけているという「極論(思考停止)」に対する回答

距離感近い人としつこい人が嫌だと何度も説明してきたけど誤解する人も少なからず。結局はブログで「極論」で白黒つけた

いまだ気持ちのケリがついていない人はこれを見て自らの考えに疑問符が生じるとよいと思うが

 

 

 

 

 

最近、気になった言葉が2つある

自分の言葉ではないが

 

1つはこれ

「~だろう」で、私は判断しない

ワールドカップのスペイン戦のVAR

これを見た時にこの言葉とリンクした

ライン上に1㎜残っている。この厳密さは人の目では厳しい

VARではなく人、レフリーが”正しく”インピッチと判断したとしても、VTRを見た人は誤審と騒ぎ立てるだろう

人の「~だろう」というのは時に見誤ることもあるってこと

 

ルールを正しく判定できる仕組み

「正しく」というのは精度の話

納得性のある精度で判定できるかというのが妥当性の根拠

納得性というのが主観的であるがそこはどこかで線引きをする必要があるので90%なのか99%なのかわからないけど「大多数の認識」というのが基準になるんだろうね

1㎝って言われるとちょっと即答できないけど、1㎜って言われるとまぁ十分じゃないって思うよね。おそらく多くの人は

 

 

センシング->認知->判断->行動

人の動き

 

VARの場合は、この「センシング」と「認知」が人の能力を超えて高性能にできる技術があったってこと

「判断」としてはこの1㎜精度を「是」として(つまりそれ以上の精度は問わないということ)受け入れるという取り決めたってこと
 

これはサッカーという世界、何が正しく何が間違っているかを厳密に取り決められた中での話

なので、焦点はそれを正しく履行できるか。「精度」に絞ることができる。「~だろう」をどれだけシュアにできるかってこと

 

 

実際の世界、ネット上の世界では、判断の基準となるルールもなかったりあいまいだったり。センシングも認知も判断もすべては人力。ルールがないのだから精度も何もない

自由度が高いがゆえに、「~だろう」という解釈が横行、OK/NGの基準がばらつく

 

 

ネット上をイメージして分解するとこんな感じ

 

センシング

ネット上から拾ってくる情報

配信動画やその場にいた人の生の声などの1次データ、

1次データの感想や意見などが2次データ、

さらにそれらをまた別な情報と紐づけて出力された3次データなどがある

ポイントは1次データの種類を多くつかむ、2次3次からどんな論点、観点があるかをつかむこと

 

認知

センシングで得たデータは事実と認知・判断(感想、意見)が混在した状態

認知をより正しく行うためには、「事実」からより本質的な「論点、観点」を抽出する

他の人の認知や判断が含まれた状態で自身の認知を行うと、バイアスがかかったり影響されたりと、正しい認知ができないことがある。

 

認知結果として「~だろう」を排除することは困難

なぜなら事実として必要な情報がすべてそろうわけではない。よって事実と事実、その間を埋めるには必ず憶測が入る

そして憶測が入って出されたアウトプットはそれもまた憶測である

人力でやる以上VARのように高精度に認知することはできない

 

判断

認知結果を、OK/NG、どう捉えるかが判断

「~だろう」という認知結果に対し、なんだかの判断するためには「基準」が必要

多くの人の納得性高い、妥当な基準(サッカーならVAR1mmならOK)を決めるのは簡単ではない。

そこでキーとなるのが、これら

価値観:

 思想のベースとなる人間観、社会観

教養、知識:

 心理学、社会学などの一般教養や特定の専門知識、

 世の中にとってプラスの効果をもたらすための道具

世の中、その世界で何が良いと考えられているか(全体視点)、先人が築いてきた豊富なノウハウや法則、そういった思想、道具を用いて、妥当な基準を構築していくという事。説得力ある基準を謳うには、「社会的観点」でどんな思想や学び、道具をそろえてきたかが問われる

 

行動

最後に行動

ここで使われる要素は、

経験:

 リスクの有無を見極める

どういったアウトプットをするのかしないのか

ベターな落としどころを決める作業

絶対的な「基準」がない世界ではここも重要

例え正しかったとしても、アウトプットの仕方を間違えると足元をすくわれることもある。費用対効果、合理性といった観点での見極めも必要なんだろう

特に配信者には大事なポイント

 

 

まとめると、ルール無き・合意無き「~だろう」が満ちた世界線においては判断(基準の質)と行動(アウトプットの見極め)がカギになる

だれもが疲弊せずトラブルに巻き込まれずネットの世界を楽しみ発展させていくためには、判断と行動、配信者もリスナーいずれもこの2つのスキルを磨く必要がある

 

 

 

もう一つの言葉

自分の機嫌は自分でとる

毎日、とある運動系Youtubeチャンネルにお世話になっているのだが、

そこで聞いた言葉

いい言葉だ

その通りだと思う

 

 

「わかるわかる、最高に気持ちワリーんだよな」

ん?どこかで聞いたセリフ 若かりし頃の氏

 

センシングデータをより多く集めようとすると、いらぬ不快な情報も入ってきてしまう。トレードオフ、優先度の問題。量を優先するか質を優先するか

コバエ系のうざいアンチ、無神経な言葉を無くすこと、まったく見ないようにすることは難しい
 

その関連で言うと

Discordでサクッとコメを削除 無言でw

スタッフRさん、優秀だわ

 

ついでにDで応援について紹介されていた参考動画

ちょっと見てみた

なるほどなるほど。わかりやすい

 

100いただいても100返せない

10づつもらって10を返すのがよい、そういった距離感を望んでいる

 

とか

 

負のことを書き込む人はそれに同意を得ることで気持ちよさを感じている

純粋に楽しみたいと考えている人の権利を侵害している

 

とか

 

配信者はさすがちゃんと分析して本質つかんでる。表現力もある

それにしてもこれも女性を対象に話をしているし、やはりネット上で問題を起こすのは「(中高年)女性」なのか

”どこの界隈でも”同じような傾向があるらしいので、そういう「人」がいるではなくそういう特性を持つ「集団」がいるというのは間違いないんだろうね

もうちょい正確に言うと、ネット社会の「弱者、不適合者」というレッテルを貼られる人たちが特定の層に「固まっている」ということ。

 

ネットマナーやリテラシーって結局は「皆」が「気持ちよく過ごせるよう」自分のWillのみを絶対の価値観とする行動を控えましょう、というごくごく一般的、小学校の道徳で習うくらいのレベルの話なんだと思うんだけど、自分の行動はそれとは違うと思っているのかそんなルール守る義務はないと思っているのか、理解できないのか行動が抑えられないのか。一種の「適応障害」(医学的な意味ではなく)を起こす人がいる。

 

例えばリアルだと暴走族や車内オーディオの音が車外にもガンガンに音漏れしながら走っている車とか、言って見ればそれと同じ。

ネットだから「実害」ないと思ってるのかもしれないけど、あるよ。「楽しもう」としている人に「害」を及ぼしているのよ。「愛」を叫ぶも「負」を叫ぶも。被害者が違うというだけで誰かに「害」は及ぼしている。

 

彼も、この動画の配信者も、別に人が「そう思う」ことそういう「感情をもつ」ことは否定していない

それを「外に出す」ことに対し「やめろ」と言っているだけ

 

暴走族も隣の島と何百キロも離れている無人島で勝手に走ってる分には構わないし、音漏れしないヘッドフォンで爆音で音楽を流している分には一向にかまわない(法規上はNGだろうが)

 

SNSにしろブログにしろ「自分の島」だったら何をやってもいいと思っている人がいるが、それは完全な勘違い。隣人に、通りがかりの人にダダ洩れ、「公害」となっている。

 

それを半分知ってかなのか「ごめんなさい」を連呼しながら訴えている発信は好きではない。世の中、言っていいこと悪いことはある。「ごめんなさい」は何の免罪符にもならない。

 

言っている内容が「正しい」のであれば堂々と発信すればよいし(何を謝っているのかナゾ)、そうでないのであればそもそも発信すべきではない。手元の紙のノートにでも書いておけって話。

それでも発信したいのであれば白い眼を向けられることは甘んじて受けるべき。単に自分が気持ちよくなりたいだけなのか(前の記事で書いた「泣き女」の存在が心地よいのか)、周りの反応をみて「消せばいいや」くらいの気持ちなんだろうが。

 

 

ここで言う「正しい」というのは、正義の話。大事なのは「誰の」正義かってこと。言うまでもないがもちろんそれは「あなたの」正義ではない。むしろお前の正義なぞ知るか!と誰もが思っている。自分が「自分に対して」叫ぶ正義であるならばどうぞご勝手にだけど

社会、コミュニティ、での正義は、そこの「主」か「世間」どちらかが絶対的な「是」である。「世間」を構成する多くの人はバカではない。どう取り繕ってもその主張が個人のエゴなのかは瞬殺で見抜かれる

 

 

と、正論ぶちまけても動かないのがこの世界

そこ(いろんな人がいますな)は事実として受け入れるしかないのは十分わかっての主張ですw

 

 

 

CAS、またリアルで聞いてしまった

睡眠の途中だったので、目はつぶって耳だけ傾ける

ピアノ界隈に注目しているとか

具体的に何とは言わなかったけど、先駆者として、また新たな道を模索中の身として、コミュニティへ一石を投じたことなど、「変えたこと」に対するなんだかの「変化」があるのか、今後の発展衰退がどうなっていくのか、気になるところなんだろうね

彼なりの仮説検証

彼が見据えているのは「長期的展望」

今日明日の話ではない

壮大なトライアル

 

仕掛けに対する変化、そしてそれが積み重なった時に出る結果

界隈に属するそれぞれ個々が目指す、理想とする世界とは何か

リスナー層、登録者数、再生数の変化

ビジネスの拡がりとの相関

離れたところ、上から俯瞰すると見えてくる「高みの見物」は楽しい
 

 

戻って

自分の機嫌は自分でとる

 

不安、不快、不満、もやもや、いら立ち、、、

人は外からの情報や環境に影響されやすいからいろいろあるのはわかる

 

でもねそれって「あなたの問題」なんですよ

「彼の問題」でも「社会の問題」でも「迷惑をかけている隣人の問題」でもない

転嫁する相手はどこにもいない

、というのがアドラーの思想

 

それを口にしても前には進まない

気が晴れる?ないよね、きっと

誰か解決してくれないかな、とか、相手が変わってくれないか、とか。

普通に考えてないよ。「相手」が問題と思っていないのであれば

 

本気で解決したい、払しょくしたいのであれば「自身で」解決する術を見つけるしかない

周りを冷静に見て、分析して、整理して、と正規の手段を重ねたら解決策が見えてくるよ。そこまで労力をかける価値がないのであれば、ま、いいかとスルーするのもあり。「高みの見物」、ここでも便利に使えまっせ

それが「自分の機嫌は自分でとる」ってことなんじゃないかな。

誰でもできる。やるかやらないかだけのこと

 

 

 

めっちゃ書いたな

おそらく支離滅裂、辻褄合わず

そこはスマソ潔くあきらめる!(見直す気力なし)

 

 

 

 

DragonNight

最近、気に入っている

彼の学生時代、なにげない日常の一コマ

ノスタルジー、非凡さ、いろんな感情が入り混じる