入院中に夢見た病院の脱走。持っているiPhoneにはモバイルSuicaがインストールされていたから、近くのバス停から自宅へ帰れるような気がした。
もちろん、数メートルしか歩けない自分には単なる妄想に過ぎなかったけれど。
でも、Suicaはカード式でもモバイル式でも、使わずにいると6ヶ月でロックがかかる仕様になっている。一度ロックがかかると駅の改札などで駅員さんにロック解除をお願いしないと、使えるようにはならない。
すでに入院前からだいぶ使わなくなっていたから、当然ロックはかかっていた。
でもそんなことは脳出血でやられた頭には何もよぎらなかった。
本気で逃げてもおそらくバスには乗れなかっただろう。
モバイルSuicaの場合、クレジットカードでSuicaチャージをすると、ロックが外れる。
いや、そんな事も当時は思い出せなかった。間違いなく無賃乗車でご用になっているはず。
その前に病院の四階のエレベーター前にすらたどりつけない。
私は想像した。
私が脱走したらどうなるのだろう。
きっと誰かが責任を追求されて、病院恒例の始末書の刑になる。
患者が転んでも始末書、逃亡したらなおのこと始末書。
私がお風呂タイムの時に、浴槽の床面で少しだけツルリと転びそうになった。
浴槽の中には通常滑り止め素材の敷物がひいてある。
でもその時はなかった。ピンクの滑り止めだ。
そうしたら、浴槽を掃除した介護士さんが特定されて、しょんぼりしていた。
「私は大丈夫だよ、すべりそうにはなったけど、すべらなかったし。」と言って励まそうと思ったのだが…
「掃除したら、滑り止めをひくきまりになってるの。ひかなかったのは私のミスだから」といって表情は暗い。
「そしたらどうなっちゃうの?」
「始末書書かなきゃならない」
「えええ?だって私転んでないのに?」
…そういう決まりらしい。
つまり間違いなく私の逃亡は誰かの始末書になる。始末書になると、減給にでもなるのだろうか?わからないけれど、あのガッカリ顔で誰かの元気がなくなってしまうのは悲しい。
だから逃亡は隠れた私の妄想にとどめておいた。