1944年

戦争が大好きな父は

赤紙が来ると

喜び勇んで出征していった。

私は

通っていた「日独幼稚園」が

戦争が烈しくなって閉鎖となり

ドイツ人のお友達と「サヨナラ」をした。

家は文京区小石川にあった

家の隣は路地の突き当りでお醤油工場

母方の祖父母が云った

「工場は狙われやすいから、こっちへ越しといで。」

 

1944年12月末

母と妹と私は

母の実家日本橋浜町へ引っ越して

1945年のお正月を日本橋浜町で迎えた。

そして

1945年3月9日

日本橋浜町の家は

降り注ぐ焼夷弾の雨に

丸焼けになった。

あちこちで

燃えてる人が転げまわっていた。

このような光景を

見ることは二度と無いと思った。

黒焦げの死体を跨ぐのは恐かったけど

泣かなかった。

跨がなければ

先へ進めなかったから…

死体を跨ぐようなことは

二度と無いと思った。

死体を積んだトラックを見送りながら…

有馬小学校まで行ったけど

炊き出しはやっていなかった。

だけど、そこで

乾パンとひと掴みの金平糖を貰った。

いまでも

私は

金平糖をみると

涙が溢れてくる。

だから

アレ以来

私は

一度も

金平糖を食べていない。

 

大軍拡で

戦争へまっしぐらの今

二度と見ることは無いだろうと思った光景を、

再び見ることになるかも知れない恐怖にふるえる。

その前に

安らかに死にたいものだと思う。