1954年(昭和29年)
高校受験
東京の公立高校は
第一志望から第三志望までの高校を選び
第一志望高が不合格の場合、自動的に第二、第三へ振り分けられる仕組みでした。
女子のトップは白鴎高校と忍ケ丘高校でしたが
偏差値など無い時代ですから、誰でも受験できたのです。
ところが
第一志望高が不合格の場合
第二志望校ではなく、第三志望高へ行く羽目になることが多かったのです。
ここが問題でした。
白鴎レベルのひとが
万が一失敗すると、三流高校まで落ちてしまうのです。
白鷗を目指したひとが満足するはずがないので、
高校浪人をするか、滑り止めに有名私立高校を受験ということになったのです。
公立高校を受験するひとは滑り止めに私立高校の受験を学校側から勧められました。
学校は100%の合格率を目指していましたから。
私のクラスでは、中卒就職が女子2名いました。
ひとりは「三越デパートの呉服売り場」に、
もう一人は地元の料亭「花蝶」へ働きにいきました。
受験する人の願書は先生がまとめて提出してくださいました。
担任の先生は白鷗・忍ケ丘を狙うなら、滑り止めを…と。
狙いたい気持ちは無かったので、自分で高校探しを始めました。
そして選んだのが「上野忍ケ丘高校」
公立高校には珍しく普通科・商業科・家庭科がありました。
立地条件がいい。
「上野」という魅力的な町で、おまけに「鬼子母神さまの近くときている♪
戦前は女子高だったのが、戦後共学になったばかりの学校だから女性上位♪
先生にその旨をつげると先生は仰いました。
「その学校はウチの中学から誰も行っていないので、先輩はいませんよ。」
「その高校とうちの中学とは今まで全然関わりがありませんから、合格の可能性は低いと思いますよ。」
「他に受験者がいませんから、願書は自分で出しにいってください」
「滑り止め受けてくださいね」
私は滑り止めを受験する気はありませんでした。
だって
私立高の入学金納入期限は公立高校合格発表の前日迄だったのです。セコイ事極まりありません。
そこで
自分で願書提出に…
先生に内申書を見せて下さいとお願いしたら…
驚き桃の木山椒の木
べた褒めの内申書でびっくり!
ところがところが
今年から受験に実技が入ると云うニュース。
それがあろうことか鉄棒の「懸垂」だと云うのですっ!
できません!
受験勉強どころではありませんでした
毎日放課後必死で懸垂の練習!
1回がやっと…絶望です。
それでも
願書提出にいきました
受験番号は2番
1番は泉さんというひとで、病欠を1年間したので、年は一つ上。
一人で願書をだしにきた女子中学生でしたので、すぐ友だちになりました。
実技は「懸垂」ではなく、得意の美術~♪
巾3㎝ 長さ30㎝位の紙テープと画用紙が配られて、
テープを曲げたり折ったりしながら造形して写生するのです。
楽しかった♪
私の受験は先生の悩みの種となったことと思いますが
自宅周辺の人々にも心配の種
口々に声をかけてきました。
「けいちゃん 入試どうだった?」
『できたよ!受かってるから大丈夫』
「受かってるかどうか、電話で訊いてみようかなぁ…」
『無駄よ。発表まで誰が訊いても教えてはくれないわよ~』
…って云ってるのに…
お節介なご近所さんのなかに数名電話したひとがいた。(笑)
合格の自信はありましたが…
万が一不合格だったら…それは
裏口入学の人がいたからに違いないのだから、学校へ抗議にいくつもりでした。
合格発表の日
学校の近くで泉さんが戻って来るのに出会いました。
「あ! けいちゃん受かってるよ!私も受かったよ!」
『えーホント⁈ じゃ一緒に帰ろっ♪』
「ダメだよ~。手続きがいろいろあるんだよ。制服も申し込まなきゃならないし~。行っといで~♪」
私たちはあまり親の手を煩わせることはありませんでした。
金銭的問題以外は…ね…(^^ゞ
中学1年生より小学6年生の方がおとな
高校1年生より中学3年生の方がおとな
大学1年生より高校3年生の方がおとな
それから
数年後には
大学受験にまで親が付き添う時代がきたのです。
大学卒業まではみんな子どもになりました。
みんなは全員という意味ではありません。(笑)
お・し・ま・い
学校帰りに憧れの物理の先生と喫茶店によって
ロシア民謡を沢山教わりました♪
≪泉のほとり≫