1954年
亡き母が戦前に通った小学校は
東京・中央区 浜町小学校
戦後 浜町中学校となり私が通いました。
学校は隅田川にかかる清洲橋の近くにあり、
屋上から見える清洲橋には惚れ惚れする美しさがありました。
美術の時間に版画をやることになり、
私は清洲橋を5色刷りで彫りました。
後日
美術の先生がだしている季刊誌の表紙にそれが使われているのを発見。
「先生っ!コレっ!ナニっ!(; ・`д・´)」
『やぁ、すまんすまん、使わせてもらったー(#^^#)』
先生はいつものシワガレ声の大声で言った。
先生に使われたことが、本当は、嬉しかった
弟が絵画の通信教育を受け始めた。
絵の提出期限に間に合わないと焦っていたので、
私が描いた絵で良かったら…と弟に渡した。
白いクレヨンでカモメの群れを描き、空色の水彩絵の具で全体をぬりつぶすという、
今では珍しくもない技法ですが、当時私はその技法にハマっていました。(笑)。
翌年、歴史の本の新刊が出たという宣伝を見て本屋さんへ行きました。
棚にずら―ッと並んだ「〇〇の歴史」のシリーズを見て
「えっ!」
本の表紙は、弟に渡した私の描いた絵とそっくりだった。
本を手に取り、表紙の絵の作者を見たら、弟が受けていた通信教育の添削の先生の名が。
でも、文句は言えません。
弟は自分が描いたものではない作品を提出したのですから…
もう60年位前の話ですから、完全に時効です。
60歳になってパソコンを始めました。
最初 近くにあった大手のパソコン教室に通いました。
ワードをやっと覚えた頃
〇〇〇〇電気でイラスト集のCDが500円で売られているのを見つけて、
即、買いました。
パソコン教室でお年賀状のコンクールがあったので、
私はCDから、雪だるまがスキーで滑っていいる絵を選び、
「あけましておめでとうございます」の文字だけ入れて提出しました。
まだ、その程度しかできなかったのです。
ところが
私の作品が全国一に選ばれたのです。
私も、お教室の先生も、ビックリでした!
「シンプルで無駄がない!」って…
絵も描いたと思われたんだろうなぁ…
ですけど
賞金は遠慮なくいただきましたm(_ _)m
フリーソフトで曲作りにハマりました。
「16小節の遊び」というタイトルで数曲CDにいれて自画自賛で楽しんでいたのですが、
ある時
友だちとランチをしていたら
店内に聞き覚えのある曲が流れてきました。
「あれ、この曲…私の曲…」
『この曲、私も知ってるわよ♪題名は知らないけどよく聴くもの』…と友だちが。
私の体内にしみ込んでいた音が、
あたかも自分の音かのようにでてきたに違いありません。
以来
作曲に関する盗作騒ぎがあると、それは「盗作」ではない!と、
ひとり心の中で、強く反論しているのです。