小学校3年生までは戦後の貧しさの中、裸足で通学の生徒が数人いました。足

(↓焼け跡の校舎の屋上で)

4年生になった頃は、裸足はいなくなり、下駄通学が多く、靴を履いている生徒が数人。

学校は土曜日は半ドンで日曜日は休み。

毎週、土曜日の授業が終わると、担任の先生は I くんを呼んで、「お風呂に入っておいで」と、10円玉を手に握らせます。

(その頃 銭湯は10円だったのです。こどもは8円だったかも…)

クラスのみんなは1週間ぶりにお風呂に入れる I くんを思って胸を熱くしながら、見て見ないふりをしていました。

陰口を叩くこともありませんでした。

 

クラスには、小児麻痺の生徒が二人。

一人は手が不自由で、もう一人は足が不自由でした。

けれど、二人とも一緒に縄跳びをしたり、デッドボールをしたりして、普通に遊んでいました。

手足の不自由な友だちを守るためにゲームは、より白熱した面白さが増してくるのです。

家庭は三世代同居があたりまえの時代。

 

1951年 私は中学生になりました。

初めてできた校則は「下駄通学禁止」でした。爆  笑スニーカースニーカー

ソロバンの時間

見取算・伝票・読上算・暗算

読上算と暗算の途中で、先生は時々「ネガイマシテ~ガ~~1円な~り 2円ではーーー!」と超簡単な問題を出します。

その問題はTくん専用の問題なので、誰も手をあげません。

Tくんが勢いよく「はーーーいっ!」と手をあげます。パー

「ハイ!Tくん」

「3円でーすっ!」

「ゴーメー!!!(「ご明算」のこと)」とみんなの大声が教室中に響きます。グッド!

Tくんは得意そうな顔で、鼻をヒクヒクさせます。

いつもにこにこしていて人気者のTくんは知的障害のある生徒でした。

どの授業も先生方はTくん専用の問題を用意していました。

その度にクラスのみんなは、愉しそうにTくんをみつめます。

 

いまから思えば、現在のような受験制度もなく、偏差値なんぞというものもなく、進学のときの内申書も自由にみることができた、ゆとりある学校生活だったと思います。学校

 

可能な限り、いろんな人が一緒に暮らしてこそ、他への思いやりの心が育めます。

 

学校その他の公の施設が、普通学級と特別支援学級との交流とか、老人とこどもの交流とか、そういったことへの配慮に重点をおいてくださっていることが、ネット情報から伝わってきます。

「交流」というつくられたシチュエーションではなく、日常的に、自然にみんな一緒に暮らせたら…それが一番だと思っています。

 

便宜上 様々な枠組みをつくらざるを得ないことは分かるのですが、

「後期高齢者」の枠に囲われた通知がきたとき、憤懣やるかたない気持ちになったことは確かです。

 

≪まあるいいのち≫

作曲作詞歌 イルカ

ぼくから見れば

小さなカメも

アリから見ればきっと

大きなカメかな

みんな同じ生きているから

一人にひとつずつ 大切な命

 

ぼくから見れば

大きな家も

山の上から見れば

こびとの家みたい

みんな同じ地球の家族

一人にひとつずつ 大切な命

 

ぼくから見れば

東と西も

よその星から見れば

丸くてわかんない

みんな同じ宇宙の仲間

一人にひとつずつ 大切な命

 

二つの手のひらほほにあてれば

伝わるぬくもり まあるいいのち

二つの手のひらほほにあてれば

伝わるぬくもり まあるいいのち

ラララ・・・