春から心機一転したいことは?
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「心機一転」
少しだけ重たいことを書きます。
「母との関係」を見直し、繋ぎ直そうと思っています。
1ヶ月ちょっと前に父が入院して、「在宅」老老介護は突然に終了しました。
ワタシは引き続き、週2回+α のペースで、実家へ通っています。
オンライン面会など父の入院に関わることと、母の精神的なサポートをしています。
母と1対1で相対するのは、なかなかにしんどいです
何がしんどいのかというと、母が、ワタシに心を許して、なんでも喋ることです。
「それは、こどもではなく、親友に打ち明けることだろう?」というようなことまで。
思えば、ワタシが子供のころからそうでした。
自分や夫(ワタシの父)の実家・兄弟の、愚痴や悪口。
小中学校では成績がよかったという、ほんのちょっとの自慢。
近所のご家庭の、(今考えれば)子供に聞かせるには如何か?と思うような噂。
自分の子供時代の、ネガティブな記憶の数々(楽しかったことは、あまり話さない)。
母の「負の感情」のゴミ箱にされていたように思う。
昨日も、「自分の生き方」についてグチグチ言い始めたので。
「そういうことは、こどもじゃなくて、友達と話すべきだと思うよ」と打ち切りました。
ふと思うと、母には、知的レベルが同等で、深い話ができる「友だち」がいないのかも。
ひとりだけ、今で言う「ママ友」にそういうタイプの友人がいたけれど、割と早く亡くなってしまった。
そう考えると、気の毒といえば気の毒なのか。
「身内」というのは、100%大嫌い、という単純なものではない。
ということに気づいたのは、30歳を過ぎてからだ。
それまでは、悪口を言っていた親戚のことを、母は、大嫌いなのだと思っていた。
ところが、大人になってあれこれ話すと、彼らについて肯定的なことも口にするようになっていた。
ワタシははじめ、戸惑った。
子供の価値観で「黒判定」していたひとたちについて、突然、「グレーっぽい白判定」を突きつけられたのだから。
ああそうだ。
ワタシの父母は、「白か黒か」というデジタルな思考をする人間だ。
その影響だろう、ワタシもどちらかといえば、同じ思考様式をもっていた。
そんなにはっきりと、数値的に割り切れるものではないのに。
ワタシの母に対する感情も、同じだ。
好きと嫌いが、ごちゃまぜになっている。
妹は、母を「毒親」とみなしてはいるけれど、母に対して依存的だった自分の過去を冷静に認めている。
ワタシとは違うが、やはり、好きと嫌いのごちゃまぜなんだな、とはよく感じる。
もうひとつのしんどさ。
これは、ワタシ特有の問題かもしれないが。
「親の立場」の言葉をかけられると、こころが「軽く」傷つく。
1回だけならすぐに癒やされるんだけど、何度も重なると、こころが疲労骨折したように感じる。
「親」になってしまうと、「こどもの立場」のグチや問題意識は、わからなくなってしまうのだろうか。
「こどものこころ」を、失って、忘れてしまうのだろうか。たとえば。
夫の両親と同居して、介護に関わっている友人がいる。
母も彼女のことを知っているので、ときどき話題にする。
あるとき、彼女の話をしたあと、「でも、親御さんは安心よねえ」と母が言った。
反射的に、「どっちの立場でモノ言ってんのよ?」と返してしまった。
別の話。
老老介護のサポートをするために、実家の近くに引っ越した。
そのことを連絡した「親世代」の方々から、「ご両親は安心でしょうね」という返事がきた。
そのことに、ワタシはかなり「モヤッ」とした。
ひとり、ふたりのうちは良かったが、積み重なると、「モヤモヤモヤ」とうんざりした。
なぜ「こども」のワタシに、「親目線」の言葉を投げつけるのか。
「ご両親の安心」など、ワタシには何の慰めにもならぬ。
そうだ、彼らも「親」なのだ。
自分のこころの自衛策として、ワタシは、介護の話題を親世代には話したくない。
親世代ではないひとたちも、どうか、「親の立場」で突っ込まないでほしい。
突っ込むなら、「こどもの立場」でお願いしたい。
「親は、友だちではない」
「ワタシには『こどもの立場』しかない」(「親の気持ち」は永久にわからない、と割り切る)
この2つをわきまえて、ワタシはこれから、母親と付き合っていくのだ。
(決意表明!)
昨年の「春分の日」ネタ